あなたの「お言葉」に立って
2016年2月7日 年間第5主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
お言葉ですから網を下ろしてみましょう
ルカ5:1~11
「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」とあります(ルカ5:1)。ゲネサレト湖畔というのはガリラヤ湖畔のことです。
イエスさまがここで語られた「神の言葉」の中心は、神さまは人間を愛しているので、一緒にいてくださるお方だということです。
当時は病気や障がい、災害、貧困は「神の罰」だと考えられていました。自分か家族か先祖の誰かが罪を犯した結果、神さまから罰を受けているのだと。
しかし、イエスさまはそのことをはっきりと否定しました。そして、「人間はみんな神さまの子どもである」と宣べ伝えられたのです。
イエスさまがすべての人に知らせたかったことは、人間一人ひとりの中に神さまがお住まいになっておられることです。イエスさまの話は、いつもそのことに根本的に基づいていたと思います。
神さまは共にいてくださいます。例外なんか、ないのです。人間が何かよいことをしたから、いてくださるのではないのです。すべてに先立って、神さまの愛のイニシアチブで「神さまは共にいてくださる」のです。
そのことを認めたなら、お互いの中にも、共におられる神を認めるように。それがイエスさまの教えの根幹でした。
そうした「神の言葉」を聞こうとして群衆がイエスさまの周りに押し寄せて、押しつぶされそうになってしまった。その時、「二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。……そこでイエスは、……シモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった」(2~3節)。
イエスさまのこの小さな頼みを、漁師たちはよく聞いたなあと思います。漁師たちは夜通し働いたんですよ。でも、その日は何も収獲はなかった。がっかりして、それでも次の漁に備えて網を洗っていたのでしょう。
魚は夜の間は湖面に上がってくるけど、陽が昇ると、みんな湖の奥深くに移動してしまうから、漁をしても駄目なのです。それで網を洗っていました。
そんなところにイエスが、「岸から少し漕ぎ出してくれないか」と声をかけたので、漁師たちは「ようがす!」と漕ぎ出したのでしょう。
イエスさまは舟の中から教え始め、群衆はみんなイエスさまの「神の言葉」を聞きました。シモン・ペトロも舟の中で一緒に聞いたのではないでしょうか。
話し終わった時、シモン・ペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました(4節)。するとシモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言いました。
ペトロには、漁師としての経験と知識がありました。魚の習性を熟知していた漁師は、「昼間、網を打つことは無意味」と知っていたのです。しかし、「あなたのお言葉」に立って網を降ろしました。ここにシモン・ペトロの「立ち位置」があったと思います。そこに実りがありました。
どこに立つか。このことは、今日私たちにとっても無縁なことではなく、それどころか、まさに私たち一人ひとりにとって切実な問題です。
私たちも、自分の経験と知識を持って生きています。でも、自分にも、目の前の人にも「神さまが共にいてくださる」という神の真実があります。
「どうせ、あの人には何を言ったって意味がないよ」、「どうせ、そんなことやったって何の意味もないよ」という人間の経験と考えがあるかもしれません。でも、「神が共におられる」という神の言葉の真実に立って、「神さまがあなたと共におられる」というお祈りをそこに投げ入れることができます。
漁師たちがイエスの言うとおりにすると、おびただしい魚がかかり、シモンは、人間のわざではない「神のわざ」の前に頭を下げました。
私たちも今日、呼びかけを受けています。人間の判断に立てば「やったって意味がない」と思っても、神さまが共におられるという「神の言葉」があります。その言葉の真実に立って網を降ろしてみましょう。「神さまがあなたと共におられます」と、たとえ無駄とは思っても、祈ってみましょう。これが私たちに必要な「信仰」という「立ち位置」です。
不思議な大漁をもたらしたのも神さま。水をぶどう酒に変えてくださったのも神さまです。でも、「網を投げ入れた」のも、「水がめに水を入れた」のも人間です。
私たちも、神が共におられる真実に立って、「神さまがあなたと共におられます」という祈りを相手の中に投げ入れるこの信頼が求められているのではないでしょうか。「神さまがあなたと共におられます」という祈りをその人に注ぎ続けるよう求められているのではないでしょうか。
神さまの言葉に立って生きる新しい1週間が、今日からまた始まりますように、ご一緒にお祈りしましょう。