弟子──「神が共におられる」と人に告げる者
2017年5月28日 主の昇天ミサ
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる
マタイ28:16~20
マタイの福音書の最後の言葉は、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というキリストの言葉です(28:20)。
マタイの1章にはイエスの誕生の物語が書かれていますが、そこにも同じメッセージが出てきます。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。(23節)
「神は私たちと共におられる」というメッセージから始まって、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」で終わるのが、マタイの福音書という良いお知らせです。
さて、「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った」とあります。マタイの福音書で「山」というのは、神さまとの特別の出会いの場所になります。
そこで「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」と書かれています(17節)。それは、「何人かは信じたけれど、何人かが疑った」とも、「全員が信じてひれ伏しつつ疑った」とも訳せます。
おそらく後者のように理解してもいいでしょう。11人が11人ともイエスを見て信じ、かつ疑う。これが私たちのありようです。そういう疑いを残したままの私たちのところにイエスは近寄って励ましてくださいます。そして、励ますと同時に、歩むべき使命もお示しになります。
「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい」(18~20節)
たくさんのことを命じられているようですが、それは中心的な命令と、それを支えるための補助的な命令に分かれているようです。
中心的なメッセージは「私の弟子にしなさい」です。ほかの「行って」、「父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け」、「あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい」というのは、「分詞」というかたちで書かれています。「あなたがたは行きつつ、洗礼を授けつつ、守るよう教えつつ、すべての民を私の弟子にしなさい」という感じです。
私たちもキリストの弟子となった者として、「ほかの人を弟子にしなさい」というのがイエスさまの中心的命令だということです。
弟子とは、「先生と一緒に歩く者」ではないかなと私は思います。先生と一緒の向きで生きる人です。
さて、イエスについて「その名はインマヌエルと呼ばれる」と書いてあります。つまりイエスは、「神が私たちと共におられる」という真実そのものだということです。
神が私たちと共におられる真実をいつも見て、その真実を告げ、その真実のために祈り、その真実を真実であると現して生きてくださったお方です。そして、ご自分が生きておられたその真実の中に私たちをも一緒に入れたい。それがイエスの望みであり、御父の望みでした。
その中に私たちを立たせるために、イエスはまず弟子を呼びました。ガリラヤ湖で網を打っていたシモン・ペトロとその兄弟アンデレに声をかけました。
「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(4:19)
そう言われて、二人はすべてを捨ててついて行きました。イエスと同じ向きで生きる者となって、弟子となってついて行ったんです。ほかにも大勢の弟子がいました。
しかし、この弟子たちはイエスに最後までついて行くこと、イエスさまと一緒の向きで生きることができませんでした。十字架という時、イエスを見捨ててみんな逃げてしまったんです。「神が共におられる」という真実に生きるイエスにずっとついて行くことができなかった。これが人間のありようです。
しかし、イエスは十字架の上でも「神は私たちと共におられる」という真実の中におられました。自分を殺そうとする者の中にも「神は私たちと共におられる」という真実があることを見て(ルカ23:34参照)、その真実の中で死なれました。そして、その真実の中で復活されたのです。
山の上で弟子たちが出会ったキリストとは、その方のことです。そのキリストを見て、ひれ伏し、かつ疑った。これは私たちのことではないでしょうか。
だからイエスは、私たちに近寄って励ましてくださいます。そして、励ましとともに使命も与えられます。
「すべての民を弟子にしなさい」
神さまが共におられることを告げ、告げられた人が誰かにそれを告げるようになるまで祈ることがイエスさまの命令です。そのことがおできになるイエスさまに信頼して、一緒に生きることが弟子になるという意味だと思います。お祈りをしたいと思います。