セレブレーションOCC第3回首都圏宣教セミナー「信徒から見た『日本宣教の今日とこれから』」が5月28日、お茶の水クリスチャン・センター(東京都千代田区)のチャペルで行われ、およそ150人の教職者や信徒らが集まった。午前中の集会では、山崎製パン株式会社(以下ヤマザキ)社長の飯島延浩(いいじま・のぶひろ)氏(76)が「キリストとの出会いと企業経営」と題して講演を行った。
まず、飯島氏の父親で社主だった藤十郎氏がヤマザキを創業した当時の話から始まった。
藤十郎氏が千葉県市川市で小さなパン屋を始めたのは、戦後の混乱が続く1948年。神から与えられた「天職」だと感じた藤十郎氏は、12坪の小さな土地に建てた店舗で、妻と妹、数人の従業員と一緒に働いた。
藤十郎氏は昭和初期に新宿中村屋(創業者の相馬愛蔵がクリスチャンだった)で奉公した経験があったが、数年で辞め、師範学校に進学。教職の道を進んだ。やがて召集令状を受け、猛勉強の末、陸軍少尉となって出兵したが、戦後は復興のために努力を重ねた。
1956年、言葉もよく分からないまま、パン製造の技術を学ぶべく、単身渡欧。「日本の製パン技術は、少なくてもヨーロッパや米国に比べて30年は遅れている」と感じたという。その遅れを10年で取り戻すべく、積極的に最新技術を導入し、日本の製パン業の先駆けとなった。
「技術だけでなく、欧米の経営手法も取り入れなければならない」と感じた藤十郎氏が学んだのがピーター・ドラッカーの経営理論。こうして63年には東京都武蔵野市に工場を建設し、さまざまな苦難と試練を乗り越えて全国展開も果たした。
しかし、藤十郎氏が健康を損なったことを機に、経営陣が争いの渦へと陥った。その混乱から救いの道を求めるべく向かったのが日本ホーリネス教団・池の上キリスト教会だった。そして73年、藤十郎氏とその妻、そして延浩氏が洗礼を受けた。
それから11日後、最有力工場である武蔵野工場が火災に遭い、生産ラインがストップするという災難に見舞われた。翌日には3人で教会に出向き、心を尽くして神にこう祈ったという。
「この火災は、ヤマザキがあまりにも事業本位に仕事を進めてきたことによる神の戒めです。これからヤマザキは神の御心にかなう会社に生まれ変わります」
その後、近隣工場で武蔵野工場の分を生産し、火事から3日目には、それまでと同じように顧客に商品を届けることができた。
新しいヤマザキがスタートしたものの、以前から続く混乱と争いが再び表面化。79年、藤十郎氏の心を受け継ぎ、当時37歳の延浩氏が社長となって新体制が発足した。
「ヤマザキは、聖書の教え、キリスト教の精神に導かれる事業経営を徹底して追求する会社」として、若き社長を筆頭に邁進(まいしん)してきた。ドラッカーの教えと聖書の教えを融合した経営方針を貫くことにより、さまざまな問題に直面しながらも、現在まで製パン業界のトップを走り続けてきたのだ。
講演後の質疑応答で、女性から質問が出た。
「ヤマザキのような大きな企業で働いていると、信仰のある人、ない人、さまざまな人と仕事をすることがある。また、企業人として忙しく働く中で、信仰を保つのが難しい時があると思うが、そのような時はどうしたらよいか、アドバイスをお願いしたい」
それに対して飯島氏はこう答えた。
「ふだん私はビジネスと教会生活を分けて考えている。教会生活は一言で言うなら『愛』だが、会社に来ると、そこは常に『戦い』の場だ。しかし、何か問題が起きた時、問題を解決するには『愛』が必要。最近、痛切に感じているのは、そろそろこの二つをリンクさせる時期に来ているのではということだ。ヤマザキの中でそれが実現できればと考えている。
日本社会には裏があり、そのまた裏があり、裏の裏もある。そのような世界に生きていると、いったい何を信じていいのかと迷う時がある。真理をしっかりと握りしめていないと、乗り越えることはできない。神様と自分の関係をしっかりと築いて、それを軸に仕事をしていかないと、日本社会で生きていくのはとても苦しい。ヤマザキも何度も会社存続の危機があったが、そのたびに祈り求めてきた。真理が見えた時、それを即実行に移した。そして、今のヤマザキがあると思う」
最後には、「『試練よ、困難よ、こんにちは』という気合がなければ、とても今までやってこられなかった」と話して会場を沸かせた。
「首都圏宣教セミナー」は、首都圏宣教推進のため、日本宣教や首都圏宣教について信徒の視点から提言を受けることを趣旨として開催されている。