ときどき「神が人間を作ったのか、それとも人間が神を作ったのか」などという議論を聞くことがあります。しかし、今回の問いは「自分たち人間も含めて、すべて作ったと言われる『神』を、どうして人間はイメージするのか」というものです。
結論から書きますと、「人間は相手を求めるから」ではないかと思います。
人間には「愚痴を言う相手」が必要です。「相手してくれる人」がいるのです。なかには「ひとりで生きていける」人もいるのかもしれませんが、少なくとも私は「相手」が必要です。話を聞いてくれて、自分のことを分かってくれる人。励ましてくれる人。そして、喜びを共有できる人。その究極的な存在として、古今東西の人類は「神」というものをイメージしてきたのではないかと思ったのです。
私が1年ほど前、仕事を休んでいたときに職場に呼び出され、心理士と名乗る人から、どういう生活をしているのか聞かれたことがあります。実は割と充実した生活を送っていることを言うわけにはいきません。「寝て、起きて、食べて、寝るだけの生活です」と言わざるを得ませんでした。心理士は絶句していました。「花に水をやるとか、ないのですか」と言われたりしました。そのときに強く思ったのですが、人間はやはり「花に水をやる」というような役割でもないと、生きるモチベーションが保てないのだということです。「花」という「相手」がいります!
この夏休み、家族が泊りがけで旅行に出かけて、ひとり留守番する機会がありましたが、そのときに痛感したことがあります。「愚痴を言う相手がいない」ということと「喜びを共有する相手がいない」ということです。パソコンに向かいながら、ひとりで愚痴をぶつぶつ言い、ひとりで「うおー!」と喜んでいました。これでもキリスト信者の私ですが、「ひとり」というのはきつかったです。誰かに相手してほしくなる。これが、人が神を求める気持ちではないのかと思いました。
私がこの「神様は相手してくれる」という話をしたとき、とっさに「親」の話をした人がいます。私にとって親とは、あまりいい思い出のある対象ではありません。でも、多くの人が「相手をしてくれる人」として「親」をイメージするようです。「おかあさん、あのね」と「神様、あのね」は似ている気がします。イエス・キリストは神を「天の父」と言いました。
なんでもわかってくれる人。なんでも知っている人。人間が神に「全知全能」という性質をイメージするのは、その辺から来るのではないか、と思ったりもします。なんでも知っていて、なんでもできる人に相手してほしいからではないかと思うからです。
あるとき、教会で久しぶりに会った仲間と「血のつながっていない人との交流の大切さ」という話題で共感しあえたことがあります。「イエス・キリストは究極の他者」と言っている神学者がいると聞いたこともあります。その意味で、この私の論は珍しい意見ではないのかもしれません。でも、「なぜ『神』がいるのか」という問いのひとつの答えにはなったという気がしています。いかがでしょうか。