小さいころ、仏壇の前で、「ぱん、ぱん!」と柏手を打ってえらく叱られたことがあります。しかし小さな子に、神様と仏様の違いはわかりませんよねえ。また、大人の皆さんが仏様の前で手を合わせて「祈って」おられるときに、幼少の私は「祈るときは何を考えているの? お願いごと?」と聞いてみましたが、誰も答えてくれる大人はいませんでした。いま考えると「答えられる大人」がいなかったのでしょうねえ。
のちに私はオーケストラを始め、友人が演奏会を行うにあたって「演奏会の成功をお祈りいたします」といった日本語表現を覚えました。ずっとのち、「不採用」通知を「お祈りメール」と呼ぶ言いかたも覚えました。
あるとき、ある牧師が説教で、「『信仰生活において最も重要なものは何だと思いますか?』というアンケートの結果は何だと思いますか?」という問いかけをしました。私は「十字架と復活」だと思ったのですが、これの圧倒的多数の答えは「祈り」だったそうです。また「『あなたの信仰生活に欠けているものは何ですか?』というアンケートの結果は何だと思いますか?」という問いかけもありました。私は「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(旧約聖書詩編23編1節)だと思ったのですが、圧倒的多数の答えはこれも「祈り」だったそうです。一番重要なものが欠けていることになりますね。これほどキリスト教では「祈り」が重視されているのです。
別の牧師ですが「われわれはまことに信仰のうすいものであります!」と祈る牧師を知っています。私はその祈りを聞きながら「その通り! とくにあなた!」と思っていました。ひどい信徒ですよね。
昨日、友人から「祈り」について聞かれました。もともと私が相談に乗ってもらっていたのですが、その友人は、祈っても祈っても祈りが聞かれないそうです。私なりにお返事をいたしました。聖書には、さまざまな病人や障害者が、必死でイエスさまに癒やしてもらおうと、「あつかましく」なる場面がこれでもかと出てきます。「神(あるいは神の子)にあつかましくすること」を「祈り」と言うと思います。われわれはあつかましく「ああしてください、こうしてください」と祈るからです。
娘が悪霊に取りつかれていたカナンの女というのが聖書に出てきます(新約聖書マタイによる福音書15章21節以下)が、彼女はイエスに3回、無視されるかまたは断られるかして、4回目で願いがかないます。「4度目の正直」です。1回や2回ですごすごと引き下がるようでは、彼女の願いはかなわなかった可能性がある。これは相手が人間でも同様で、人間にあつかましくするのには限度がありますけど、とお答えしました。
最後に、その友人に祈ってもらいました。私は、人前で祈るのは不得意ですが、「祈ってもらう」のは好きです。「いっしょに神様に心をあわせましょう」というのが表向きですが、実際には「その友人が、自分のためを思って神様に祈ってくれている、その友人の友情に触れる」ことが励ましになるのです。こんな「祈ってもらう」というのは不純ですかね?