(前記事から続く)
アラブ系クリスチャンの反応
米クリスチャニティ・トゥデイ(CT)は、「(アラブ圏出身を含めた)多くの福音派クリスチャンはこの問題についての仏政府の対応を評価している」と伝えているが、その複雑性についても言及している。
CTのインタビューに応えたレバノン系フランス人、ハビブ・マリク氏(カトリック信徒)は「あの風刺画は確かに野蛮で常軌を逸している」としながらも「イエス様やマリア様の風刺や中傷は世界中で毎日のように行われているが、それでも表現の自由は守られるべきだ」と語る。
ベイルート(レバノン)にあるアラブ・バプテスト神学校のマーティン・アカド学部長は「ムスリムにとってムハンマドが聖なる存在なのと同じように、フランス人にとって表現の自由は聖なるものであることを、(フランスの)ムスリムは理解しないといけない」とした。
一方、エジプトのムニア・アニス大司教(聖公会)はシャルリーエブド社を法的に訴えることに賛成し「あの風刺画はムスリムに憎悪を抱かせ、暴力的な反応をも引き出すものだ。たしかにクリスチャンは中傷されることに慣れているかもしれないが、同じように忍耐することを他の信仰者に強制することはできない」とムスリム共同体の怒りに理解を示した。
世界中からの反応を受けて、マクロン大統領は火消しに追われている。アルジャジーラ紙のインタビューで同氏は「風刺画を見てショックを受けた人々の気持ちは理解している。私には状況を鎮静化させながら同時に(表現の)自由を守る、という使命がある」とコメントしている。
仏ムスリム協会(モハメド・ムッソール代表)も、事態の収拾に重きを置いている。ムッソール氏は「フランスがイスラーム教を弾圧しているとは思わない。私たちは自由にモスクを建設したり信仰的生活を守る自由がある。(フランスを糾弾する)活動がイスラーム教を護(まも)る名目で行われているのは分かるが(中略)フランスを中傷するような言動は反生産的だし、分裂を産むだけだ」と語っている。
反発からくる暴力は肯定されるのだろうか?
風刺画やその擁護にまわるフランス政府に対して世界中のムスリムたちが反発していることを見ると、「それではムスリムたちは犯人のことを擁護しているのか」という疑問がわいてくる。
しかしそれについて前野直樹氏(日本ムスリム協会理事)はそうではない、と言う。
「たとえ自分たちが中傷されたといって、誰かを殺めていいとか暴力に訴えてもいいとイスラーム教が教えているわけでは全くありません。むしろ、ムスリムであれ非ムスリムであれ、人の命は神の業(わざ)によるものというのがイスラーム教の教えです。クルアーン(イスラム教の聖典)にはこのように書かれています。
そのためにわれはイスラエルの子孫に掟を定めた。人一人を殺した者、地上で悪を働いたという理由もなく人を殺す者は、全人類を殺したのと同じである。人一人の生命を救う者は、全人類の生命を救ったのと同じであると。(クルアーン第5章32節)
預言者ムハンマドのことを私たちムスリムがいかに尊敬しているか、そしてそれを中傷することがいかにムスリムの気持ちを傷つけるのか、分かって欲しいし、信仰を持つ人であればそれは分かってもらえるものだと思っています。一部のムスリムが過ちを犯したからといって、イスラーム教全体を侮辱するような言動が世にはびこってしまっては、対話を閉ざすことにつながりかねません。」
この事件を振り返る時には「犯人への批判が、必ずしも風刺画を擁護することにはならない」こと、そして「仏政府への批判が、必ずしも犯人を擁護することにはならない」ことを心に留めておきたい。
互いへの敬意を忘れず、かつ暴力や殺人を正当化さえしなければ、対話を元にした共存の道を探ることは出来るはずだ。
(終)