キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。(コリントの信徒への手紙二 5章14節)
パウロをはじめ、初代教会の信徒たちは、キリストを信じただけでなく、福音を宣べ伝えたので苦難を受けた。しかし、彼らはキリストのために苦しむことを光栄に思い、福音を宣べ伝える働きを止めなかった。パウロはその理由を今日の聖書の一句で語っている。十字架につけられて死んだキリストの死は、ただ一人の人物が死んだというのではなく、私のためであったと分かる時、キリストの愛が迫ってくる。私たちが認めようが認めまいが、人間は自分で生きているのではなく、神によって造られ生かされている。それゆえに、人間は神の創造の目的に応えて、神の栄光のために生きる責任がある。しかしながら、私たちは神の栄光ではなく、自分の栄光を求め、自分の生活だけに終始して生きていた。神に対して的外れな生き方をしていた(「罪」の原語は「的外れ」)。
私たちは神から責任を問われ、罪のために神に裁かれ、死んで捨てられるべき人間であった。しかし、的外れな生き方をして罪を犯しているすべての人間のために、キリストは代わって死んでくださったのである。そして、その死によって罪の裁きから解放し、神との和解の道を開いてくださった。キリストは「すべての人のために死んでくださった」(14節)。しかし、その死が私のためであったと分かる時に、キリストの愛が迫って来る。その愛に駆り立てられて、私たちは神の意志に適(かな)う人生を生きようと決心する。こうして、私たちのうちに神との新しい関係が創造される。キリストの愛に身を置いて生きる私たちは、楽なところに身を置こうと考えるのでなく、神のために困難を引き受けていこうと決心するようになる。