《母と娘》に映り込むもの 第37回東京国際映画祭/第25回東京フィルメックス

 母親はみな、個人や政治の失敗、あらゆる問題へ捧げられる究極の生贄であり、すべてを解決するという不可能な任務を負っている。私たちは母親に、社会や私たち自身の最も厄介な重荷を押しつける。母親は人生の困難な暗部に直面せざるをえないのだ。――Jacqueline Rose『母たち 愛と残酷さについて』

第37回東京国際映画祭と、第25回東京フィルメックスがこの秋、相次いで開催された。国内配給会社の重要な買い付け機会ともなる両映画祭では、今後1、2年をかけ日本で公開される新作映画の多くが先んじて上映される。つまり両映画祭にみられる徴候は、そのまま来年以降の劇場公開映画の潮流を占う指標となる。

今年顕著にみられたのは、《母と娘》の関係性をテーマとする作品が目立つという傾向だった。また作品水準としても他より図抜けて感じられた。なぜ今、母と娘なのか。理由を探る前にまず、具体的に作品からみていこう。

例えば台湾作『娘の娘』では、異国で事故死した娘が残した受精卵の処置選択に悩む母の元に、母が若すぎる出産を経て里子に出したもう一人の娘が現れ、成長した実子との初対面を遂げる。母を演じる名優シルヴィア・チャンと、自らを捨てた実母への葛藤を抱えながら支える里子役カリーナ・ラムの絡みも見事な本作は、死の直前に母となった不在の娘が両者の紐帯となる展開も手伝い不思議な余韻を残す。

インド作『女の子は女の子』は、ヒマラヤ山麓のエリート寄宿舎学校で暮らす優等生女子を主人公とする。帰国子女の男子と恋に落ちる彼女の前に、学業を疎かにしてはならないとして彼女の母親が立ちはだかる。男子の昼寝に母親が添い寝する光景を前に勉学へ集中などできようはずもない主人公も哀れながら、同校の卒業生である知的な母親が、専業主婦に押し込められた屈託から娘へ過度に期待する様は、日本社会にも通じる汎アジア的な要素をもつ。

香港作『母性のモンタージュ』は、若い母親が夫や義母の無理解、育児と仕事の両立困難、制度の不備などに囲まれた四面楚歌にも思える状況のキツさを、生理レベルまで落とし込んだ繊細な演出により描きだす。もう無理と叫んでも届かない日々。にもかかわらず、祝福されていること。2019年以降の香港社会が陥った苦境さえそこに重ねた、日常の逼塞を丁寧に撮る陳小娟/オリバー・チャン監督の、世界肯定への強靭な意思に慄える。

中国作『空室の女』では、夫と離婚手続き中、反抗期の娘とも深い溝を抱える四十代の主婦が、ある日ささいな間違いにより年配女性に怪我を負わせたことから、精神崩壊の淵に立ち街をさまよう。短編部門でカンヌ国際映画祭の最高賞に輝いた実績をもつ邱陽が撮る夜闇の奥行きは、児童誘拐に始まるシンガポール作『黙視録』において、娘を想い発狂寸前となる若い母や、育ちゆく娘を隔絶した世界から見守る父を描いた楊修華の深い眼差しへと重なる。

マレーシア作『幼な子のためのパヴァーヌ』は、赤ちゃんポストで働く女性の目を通し、多文化社会の亀裂や矛盾を映しだす。母子関係を超え華僑社会の宗教風俗がもつグロテスク面へ突貫する静かな白熱展開に見入る。主演フィッシュ・リュウ/廖子妤は香港をメインフィールドとする俳優ながらマレーシア生まれの出自を活かし、華僑圏を超えた新たなアジア・スター女優のモデルを体現しつつあり今後が注目される。

ところでこうした中国、台湾、香港に留まらない中華系作品の増加は、東京での両映画祭において近年一貫してみられる傾向だ。これは観客サイドにも言えることで、これら東京の国際映画祭において英語はもはや第一外国語の座から退く場面も珍しくない。今年の東京フィルメックスでは監督Q&A時、観客のために中国語へ訳す時間をとる上映回も多くあった。これはコロナ禍以前にはまずみられなかった光景で、中国からの移住者ないし香港からの避難者、台湾からの旅行者等が、検閲を始め何らかの事情により大陸中国や香港では観られない中華圏映画を観るため東京の映画館へ通う光景は、今後より一般化すること必至だろう。

ここでいったん目をアジア映画以外へ転じると、キアラ・マストロヤンニが本人役で主演する仏伊合作『マルチェロ・ミオ』が、《母と娘》テーマでは際立っていた。同じく本人役でキアラの実母カトリーヌ・ドヌーヴも準主演しており、キアラの父でありドヌーヴの夫であった故マルチェロ・マストロヤンニが空虚な中心となり物語を走らせる中、キアラが男装し父へなりきることである種のイニシエーションを通過する様が描かれる。

また、特集上映が組まれたメキシコの巨匠アルトゥーロ・リプステイン作『純潔の城』も印象深い。父により18年間幽閉され、殺鼠剤を作り続けた一家を実話ベースで描く本作は、世間の悪意から守るためと正義を掲げられた父権の下、盲信する母が性の疼き覚える娘を抑圧する。本作は実録物であるが、家族への圧迫は必ずしも長年にわたる身体的な拘束を伴わずとも為され得る。しばしば共依存の文脈で語られる母娘関係の病理にもこれは通じ、また集団規模ではある種の鎖国政策もまた近しい方向性を内在させる。過去に本紙で扱った『幸福なラザロ』もまた、イタリアの地主が小作人を解放せず数十年使役状態においた実話を元とする点でこの一例と言える。

一方スイス作『煙突の中の雀』では、幼少期を暮らした家で、中年姉妹が各々の家族を連れて過ごす時間が感情の闇と記憶の幻影とを呼び起こす。一軒家における半日の内に、紛うことなき一個の小宇宙が生起退行するミニマルな構成の研ぎ澄まされた本作では、母に反発する娘があたかも宿命的にかつて母がたどった轍を遡りだす。ことし筆者がみた両映画祭上映作約70本のなかで最も優れた作品をひとつ挙げるとすれば、本作がその最有力候補なのは間違いない。

娘による母の反復というテーマをより鮮明に刻むのが、韓国作『ソクチョの冬』だ。里帰りして民宿で働く娘が、墨絵画家のフランス人旅客に惹かれて始まるひと冬の恋を描く本作では、地方都市へ里帰りした娘という設定自体が現代韓国社会の一側面を象徴的に映しだす。そしてフランス人との間にかつて娘を身籠った母の視点介入により、単なるラブロマンスに留まらない厚みを孕む。

東地中海沿岸の遺跡風景が雄大なトルコ作『昼のアポロン 夜のアテネ』は、里子に出された娘の実母との和解の旅路を描く点で冒頭の『娘の娘』にも重なる。遺跡連なる東地中海景といえばこの2024年、パレスチナやシリアを想わずにはいられない。コロナ禍で身動きのとれない数年を経て、不安定な世界情勢がより直截に個々人の暮らしへ影響し始めたグローバル化2.0とも言い得る状況下においても、しわ寄せが弱者へ向かうのは世の常であり、今この瞬間にも多くの母が身を削り、やがて少なくない娘が母へと成長しゆき社会は循環する。

日本作『あんのこと』は、母の暴力と売春強制により麻薬へ溺れた娘の更生を描く。周囲の助力もあり娘は穏やかな日常を知るが、コロナ禍が物語を暗転させる。娘を追い詰めたのは母であると言うのは容易い。ならば母を暴力へ駆り立てたのは誰なのか。社会、つまり私たちではなかったか。

ゆえに、《母と娘》なのだろう。母と娘の関係性描写こそがこの2024年を象徴的に抉り出す。年の瀬も押し迫った2024年だが、すでに遠い昔にも感じられるトランプ再選は先月のことであり、韓国のクーデター未遂もシリアのアサド政権崩壊もまだ今月の出来事であることを考えると、コロナ禍収束により世界は一層変化の速度を上げているようにも思える。2025年、今回挙げた作品の幾らかが劇場公開される頃、社会はどのような様相を見せているだろう。そのとき銀幕へ何の反映をみて、劇場を出たあとその瞳へ何を映しだすのかは無論、観客個別の感性と意志に任されている。

(ライター 藤本徹)

第37回東京国際映画祭/37th Tokyo International Film Festival
2024年10月28日(月)~11月6日(水)
https://2024.tiff-jp.net/ja/

第25回東京フィルメックス/TOKYO FILMeX 2024
2024年11月23日(土)~12月1日(日)
https://filmex.jp/

【参考引用文献】
Jacqueline RoseMothers: An Essay on Love and Cruelty” Farrar Straus & Giroux, 2018 *冒頭引用部は拙抄訳

【関連過去記事】

【映画評】 『幸福なラザロ』 ラザロとは誰か 2019年4月19日

【映画評】 彼女を追いつめたのは誰か 『あんのこと』 2024年6月4日

【映画評】 ヴェンダースの冒険 『PERFECT DAYS』『アンゼルム』 第36回東京国際映画祭 2023年12月22日

【映画】 2022年の世界像、国際映画祭にできること。 東京国際映画祭/東京フィルメックス 2022年11月11日

【本稿筆者による関連作品ポスト】

この記事もおすすめ