新刊『輝く明けの明星──待降と降誕の説教』(平野克己編、日本キリスト教団出版局)から竹森満佐一(たけもり・まさいち)の「生誕」というクリスマス説教の最後の部分をお読みいただきたい。
クリスマスには、大変な危険がありました。身重になったマリヤが、遠いところから旅をして、ベツレヘムに来たのであります。この旅のことだけを考えてみても、クリスマスの神のご計画は、いつどこでくずれるかも知れないようなものであります。身重な婦人の旅、宿がないこと、その上に、ヘロデは、この子を求めて、殺そうとさえしました(マタイ2:16~18)。いわば、み子は、人間の敵意と危険の中を、ようやく、地上に辿(たど)りついたという様子でありました。
これは、普通に考えられるような意味での、救い主の誕生とは、おおよそちがったものであったと思います。しかも、このように危険きわまりない方法で、神は、確実に、救いを成就せられたのであります。それは、救いだからであります。審(さば)きではないからであります。救うことによって、勝利しようとされたからであります。これが、クリスマスの勝利であり、クリスマスの喜びでありました。
この意味から言えば、クリスマスは、神が地上に橋頭堡(きょうとうほ)をお造りになったと言えます。戦いにおいては、いつでも、敵陣近くに、戦いのための確かな拠点を造らねばなりません。その地点は、敵の銃火にさらされているかも知れませんし、いつ敵に襲われるかも分らないようなところであるかも知れません。しかし、そこが根拠になって、戦いは進められるのであります。したがって、この橋頭堡を造ることが、勝利には、絶対に必要なことになるのであります。クリスマスは、その橋頭堡であります。弱そうに見えるかも知れません。しかし、これができれば、あとは、その勝利を拡げてゆくだけのことであります。
身を危険にさらすような方法で、救い主はこの世に来られました。だれにも知られないような形で、いわば、この世に潜入して来られたのだと言ってもいいと思います。橋頭堡を造ったと言っても、その橋頭堡は、波をかぶり、人びとの中に、埋もれてしまって、まるで見えなくなってしまうような有様でありました。救い主は、こういう形で、お出でになったのであります。人知れずと言うか、人の中に没した形で、救い主が来られたということが、クリスマスの大事なことであります。
救い主は、凱旋将軍のように、自分をきわ立たせて見せるような仕方で来られたのではなかったのです。そこに、この救い主の意味がありました。救い主は、人びとと同じ立場に身をおくために来られたのであります。人びとの中にはいって、全く人びとと同じものになり切ろうとしたのであります。他の人を救って、自分も助かるというのではなくて、他の人と全く同じになって、そのために死んで、救いを成就しようというのであります。クリスマスの救い主は、このように、他の人とちがった英雄というものではありません。人間たちと全くちがった方でありながら、罪ある人間と完全にひとつになり、その罪の救いを完全にするために、来られたのであります。
この救い主の救いは、人びとには、簡単には理解されなかったようです。それは、その内容が難しかったからではなく、人間の気がつかない、しかも、もっとも重要な救いであったから、であります。それは、人間を罪から救う救いであったのです。そのためには、こういうクリスマスが必要であったのです。ただ、罪のことなどは、人間は思い上っていて、深く考えようともしませんでした。少なくとも、それが、何よりも重要であるとも思いませんでしたし、まして、その救いが、こういう形で与えられねばならないとは考えても見なかったのであります。そこにも、クリスマスの暗さがあります。
チャールズ・ディケンズの小説に、『クリスマス・キャロル』というのがあるのは、よく知られています。あの中に、スクルージという意地悪の主人が回心する話が書いてあります。自分の店の使用人に、クリスマスの休みを与えることさえしぶったこの人が、クリスマス・イヴに、夢を見ます。その夢で、彼は、今までの自分の生活を見せつけられ、悔改めて、はれやかな思いでクリスマスの朝を迎えた、と書いてあります。クリスマスには、こういう悔改めが必要なのです。自分の罪を悔いることを知らないと、クリスマスは分らないのであります。罪を悔いて、救われなければ、救い主が何のために来られたかが分らなくなるのであります。クリスマスは、十字架の救いを忘れては、とうてい自分のものにすることができないのであります。
ルカによる福音書には、
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう(15:7)
と書いてあります。
クリスマスの夜、天には、不思議な明るさがあったと申しました。それは、天に言いようのない大きな喜びがあったからであります。その喜びは何でしょうか。それは、悔改める罪人のための喜びであります。み子は、罪人を悔改めさせるために出発しようとするのであります。だから、このように明るい大きな喜びが、天にあったのであります。
(『わが主よ、わが神よ イエス伝講解説教集』ヨルダン社、1977年所収。同書復刻版、教文館、2016年に再録)