バンド/サルーキ=の活動が3年目を迎え、ある程度軌道にのってきてレコード会社からCDをリリースすることになり、そのキャンペーンのために吉祥寺の路上にてストリートライブを丸三ヶ月、毎日やっていた頃のこと。僕は教会で聖書の学びを並行して行っており、いよいよ10月に洗礼式を迎えることに。
そんな洗礼式を迎える前日も、この「毎日路上ライブ」の真っ只中でした。この日も吉祥寺でのストリートライブを終えて、片付けして帰ろうとしていたら、その日初めて立ち止まってライブを聴いてくれていたお客さんの女の子がなかなか帰らない。普段はあまりないいことですが、帰りの電車もその子と一緒になってしまい、彼女の悩みをきくことに。
話の内容は段々深刻になり、そのうち「もう明日にでも死にたい」と告白してきました。その日路上で初めて会った人の個人的な悩みを聞かされて、最初は正直面倒くさいなーと思っていた僕ですが、いよいよ次の駅で彼女が降りるというタイミングで、気がついたら「死ぬ前に明日の僕の洗礼式に来てみない?」と声をかけていました。
翌日、洗礼式当日。 この僕がなぜイエス・キリストを信じて、こともあろうか宗教なんかに入ろうとしたのか、その理由をきいてほしくて、ミュージシャン仲間はじめ、家族や、田舎から祖父祖母も呼んでいました。そんななかに前日の夜に路上ライブでたまたま知り合った自殺願望のある彼女も教会の場所をわざわざ探し当てて参加してくれていました。洗礼式では、なぜキリストを信じようと思ったのかを話す「証(あかし)の時間」があるのですが、持ち時間15分を大幅にオーバーした僕は、気づいたら延々1時間近く証をしていました。このエピソードは、いまだに牧師から「あの時は長かったねー」とチクリ言われます。
まあそのくらい僕としては、不信仰だったこの僕を神様が信仰の道に導いた過程を、まだ神様を信じていない方々に伝えたい思いが強かったのを覚えています。田舎からわざわざ出てきてくれた祖父も、牧師の話がよかったと言ってくれました。「でも教会のトイレだけが古くて惜しいな」とアパート経営している祖父ならではの感想も印象的でした。
僕としては洗礼式はキリストとの結婚式みたいなイメージで、これから神様とともに新たな人生を歩んでいくという門出に、家族や多くの友人が出席してくれていて感無量でした。路上で出会った彼女のその後のエピソードですが、いろいろあったものの、そのあと教会につながることが出来て、数年後に救われ、自殺願望の強かった彼女はいまも生かされて地方で母親になっているという奇跡的な現実があります。
「永遠の神の愛は我らの出会いの中で実を結ぶ」
僕が洗礼をうけるきっかけになった「君は愛されるため生まれた人」という歌の一節です。そのことを身をもって体験させてくれた神様に感謝が尽きません。
神様は僕たちに自由意思を与えて、
救いか滅びか
祝福か呪いか
神に従うか人に従うか
いつも選択肢を与えてくれています。
僕たちが自分の意思で神様の心である「いのち」の方を毎日選んでいくことが出来ますように。キリストを通して、命を捨ててでも僕たちを救いに導きたかった神様の愛に信頼して、その愛に飛び込んでいくことが出来ますように。
「永遠の神の愛は我らの出会いの中で実を結ぶ」
人生はまさにGOD ONLY KNOWS!
この続きはまた次回のコラムで。
☆chiyo☆