前回は、教会において家族を愛するという、私の小さな挑戦について分かち合いました。そのためのポイントとして「近藤真史が高価で尊いのは、私が忠実な牧師だからではなく、イエスが私のために死んでよみがえってくださったからだ」という自己認識についてもお話ししました。私たちの教会では、このような聖書の読み方を「福音中心」と呼んでいます。
福音とは何でしょうか? 「私の罪の性質や実際の生活が少しも変わっていないのにもかかわらず、イエスの十字架と復活によって、信じるだけで罪赦され、義と認められ、御国に迎え入れられる者とされた」(ローマ人への手紙3章24節、テトスの手紙3章4~5、7節など=新改訳2017)という良い知らせです。これがあくまで「知らせ」であって「こうしたら良い」というアドバイスではない点も大切なポイントでしょう。
この福音の教えを「未信者が救われる時に用いられる教え」としてだけでなく、クリスチャン生活の〝中心〟に据えるという聖書の読み方を「福音中心」と呼んでいます。なぜ、福音はクリスチャンにとっても重要な教えなのでしょうか? ローマ人への手紙のテーマは福音と言えますが(1章15~17節)、使徒パウロはこれをローマ教会の信徒に向けて語っていますね。
この「福音中心」が私には特に必要でした。なぜなら、私は劣等感を覚えることの多い人生を歩んできたからです。幼い時から勉強やスポーツは平均点以上だったにもかかわらず、人気者とは真逆の立ち位置におり、いわゆるスクールカーストでは常に中の下か下の上。そんな中、私には「自分が最下層にはいない」ことに慰めを覚える意地汚なさがありました。
人から認められない分、私はさまざまな〝行い〟で自分の価値を証明しようとしました。しかし、運動会などである程度活躍しても、それが友人関係の改善にまったく反映されないことに傷つき、その傷は、私の人格形成に暗い影を落としていました。
そんな私は、無条件でイエスに愛されているという福音に感動し、イエスを信じました。が、その後も行いによる自己証明という生き方は変わりませんでした。教会に通い始めてからは、礼拝や祈祷会への出席、さまざまな奉仕活動などにより、自分の価値を高めようとしていたのです。
そんな私がもしも「福音中心」に出会わずに牧会を始めていたら、どのような牧師になっていたでしょうか。礼拝出席者数や信徒さんからの説教へのコメントなどによって、自らの価値を証明しようとする牧師になっていたはずです。今でもその面がありますから、日々悔い改めています。とはいえ、私は「牧師業の成果がキリストにある私の価値を左右することは決してない」と、少なくとも頭では理解できています。その上で、今取り組んでいることは、その理解を「心に下す」=「腹落ちさせる」こと、すなわち、福音のインストールです。インストールとは、パソコンなどに取り込んだソフトウェアを実際に使える状態にすること。福音のインストールとは、福音が私の実生活において確かな意味を持つようにする、ということです。
教会でも「あなたの礼拝や奉仕や祈りによって、キリストにあるあなたの価値が高まったり、より神から愛されたりすることはありません」とお伝えしています。「こんなにも罪深い私のために、神の御子が十字架にまで架かってくださった!」という驚きと感動から、さまざまな教会生活が生まれてくる。そんな喜びと自由に根ざした教会形成を目指して、今年で4年目。まだまだ新米のつもりでいますが、さて、これからどうなることやら……。
こんどう・まさし 1985年東京生まれ。クリスチャン家庭で育つも中学から教会生活をやめ、18歳でイエス様に戻る。Worship!JAPAN(旧ゴスペル音楽院)卒業。東京基督教大学修士課程終了。在学中に、千葉県千葉市にあるおゆみ野キリスト教会(日本長老教会)のメンバーとなり、夫婦関係の修復を得る。2021年より同教会牧師。趣味はベース演奏とポッドキャスト、サ活。