新刊『ヘルジャパンを女が自由に楽しく生き延びる方法』(幻冬舎)を含む数々の著作で、神戸女学院中高時代に培った自尊心に触れつつ不条理に満ちた「ヘルジャパン」を生き抜く知恵を伝授してきた作家のアルテイシアさんと、本紙「論壇2.0」を執筆中の渡邊さゆりさんが教会内のジェンダーを取り巻く課題などを語り合った。
あるていしあ 神戸生まれ。大学卒業後、広告会社に勤務。夫であるオタク格闘家との出会いから結婚までをつづった『59番目のプロポーズ』で作家デビュー。『40歳を過ぎたら生きるのがラクになった』『離婚しそうな私が結婚を続けている29の理由』『フェミニズムに出会って長生きしたくなった。』など著書多数。
わたなべ・さゆり 大阪生まれ。マイノリティ宣教センター共同主事、日本バプテスト同盟駒込平和教会牧師。「普天間ゲート前でゴスペルを歌う会に連帯する戸塚平和ゴスペル行動」代表、アトゥトゥミャンマー支援共同代表。共著に『キリスト教の教師 聖書と現場から』『イースターへの旅路』など。
■価値観の基礎が育まれた中高時代
――神戸女学院時代、初めて触れたキリスト教はどんな印象でしたか?
アルテイシア 当時はまだ見えている世界が狭かったので、こんなものかなという感じだったんですが、卒業して進学した国立大学は女子学生が少なくミソジニーとルッキズムに殴られるような環境だったので、いろいろな意味でカルチャーショックでした。
今になって神戸女学院時代は本当に恵まれていたと思います。ボランティア活動が盛んで、困った時は支え合うのが当たり前という環境でしたし、聖書の教えでもそういう話を毎日のように聞きましたし、外国人差別や部落差別についても外部から来た先生の話を聞く機会があったりして、現在にもつながる価値観の基礎が育まれたと思います。
大人になってから、文学や映画でも聖書に基づく話がたびたび出てくるので、ある程度そういう知識があるとより楽しめると思いました。外国人と話す時にも、宗教の意味をある程度わかって話せるのはミッションスクール出身者の強みですね。
――著作の中で「『置かれた場所で咲きなさい』が嫌いです」という話がとても印象的でした。
アルテイシア シスター渡辺和子による累計200万部の大ベストセラーですが、ぶっちゃけ奴隷になることを推奨するような本だと思ったんです(笑)。その「置かれた場所」がドブだったら永遠に抜け出せなくなる。現実に毒親育ちや、パワハラやセクハラを受けている人、差別や暴力に苦しんでいる人が、そこで「咲きなさい」と言われたら、人権が侵害されていることに気づけません。嫌なことは嫌と言っていいし、理不尽な状況に怒れるというのはまともな人権意識がある証拠だと私は思っているので、フェミニストの立場からも受け入れられません。
渡邊 高校生でも、あの言葉が嫌いな生徒は結構多いですよ。中学・高校で聖書科の教員もしてきましたが、平易な言葉で書かれている本なので、学校現場ではお薦めされることが少なくありません。でも、やっぱり違和感を持って批判してくる生徒もいます。
アルテイシア 頼もしい。誰が勝手に決めてそこに置いたの?って思いますよね。自分の権利に無自覚になってしまうと思うんですよ。やっぱりスタートラインはみんな全然違うじゃないですか。塾なんて行けずに、アルバイトをしながら家計を支えるような子もいるわけで、実際に親の経済格差が子どもの教育格差にダイレクトにつながっている中で、「置かれた場所で避け」と言われたらしんどい。
――教会には他にも、誤読されがちな呪いの言葉が蔓延しています。
アルテイシア 渡邊さんが『別冊Ministry』で書かれていた「ざんねんな言葉集」を拝見して、高齢者が多い政党に似ているなと思いました。性役割分業が決まっていて、例えば選挙の時に車を運転するのは男性で、お茶を用意するのは女性とか。でも、縁のある日本共産党の場合、若い人に来てもらわないと党自体がなくなってしまうという危機感があるから、がんばって変わろうとしているんですよね。ジェンダー平等のための研修をしたり、パワハラの予防法を学んだり。教会も似たように、変わらなきゃという動きはあるんですかね?
渡邊 あるにはあるんですが、その視点自体が若者を消費するようなところがありますね。若者は元気ではつらつとしているというような固定的なイメージのラベリングも強くて、自分たちがかつて若者だったころの情景が信仰的「勝ち組」として美しく心の中に残っているんです。でも、学校の宿題で強制的に来させられているとか、他に行く場所ないからとか、昼ご飯食べられるからとか、そういう理由で来る若者もいるわけですよ。だから、若い人に来てほしいとは思っているんだけど、それはすでに教会に来ている高齢者が思い描く、都合のいい若者に来てほしいだけ。自分たちが参加したかつての「ユース・カンファレンス」的なものに押し込んでいこうとしたりとか。あとは、若者だからきっと人生に悩んでいるという押し付けはやめた方がいい。
アルテイシア 「悩んでるでしょ?」みたいな感じで来られるのはウザいですね(笑)
渡邊 ある意味すでに着地していて、自分の道を生きていると思っている人がたまたま教会に来てしまう場合もあるんです。でも、教会は「迷うべきだ」と言うんですよ。
アルテイシア 「迷える子羊」でいてほしいのかもしれませんね。
渡邊 そうそう。実際に教会員が転会しただけで、「ウチの羊を泥棒するな」とか言われることもありますし。信徒は家畜じゃないのに。
アルテイシア 羊泥棒、それもひどい話ですね。牧師が自分の所有物みたいに……。まさに家父長制。
渡邊 霊的にその人を養っているという自覚を持つ牧師は多いです。
■時代に即していないキリスト教
――教会の規模や信徒の数によって牧師が評価されるという悪習の弊害かと。
アルテイシア 世界的に見てもキリスト教の信者数が減っていると伝え聞きますが、一番大きい理由は何でしょうか?
渡邊 キリスト教が伝えているインパクトが時代にまったく即していないというのが大きいのと、世界的に経済力が落ちているので、教会にかまっている余裕がない。教会って案外、文化的にハイレベルなものを求めてしまっていると思うんです。それが強みでもあったんですが、今は個々人が自分で直接アクセスできる。教会に行かなくても芸術に触れられ、音楽が聞けて、本が読める。
アルテイシア 今やサブスクで見放題ですからね。
渡邊 そうなんです。一方で、東南アジアやアフリカ地域ではキリスト教が激しく伸びています。経済的に苦しく、自分の命が短いスパンで終わるかもしれないと知っている人たちは、熱狂的に今を爆発させていくということに興味があるんだろうと思います。日本の教会は、明らかに白人の教会なんですよ。牧師もアメリカかドイツに留学すると箔が付きますし、形成されている共同体が西洋化されています。
アルテイシア やっぱり教えが古いというイメージもあるんでしょうか?
渡邊 現代は他の選択肢がたくさんあるので、教会を素敵なコンテンツとは思ってもらえていないんですね。正直、教会に行っても疲れるという理由もあるんですね。家でご飯を作って、さらに教会に行ってまでご飯を作って、みんなに食べさせるとか。
アルテイシア なるほど。特に女性は、「なんでここに来てまでケア労働せなあかんねん」ってなりますよね。
渡邊 本当はそれらの奉仕も学びも喜んでやるということになっているんです。もちろん喜んでやるわけですが、疲れは一緒。どんなに喜びがあっても、当然体は疲れる。今までは体のことをあまり気にせず、たとえ疲れても喜んでいればいいだろうと言われてきたけれども、やっぱり体が疲れたら行くのが嫌になってくるんですよ。
アルテイシア あとは、とにかくきっかけがないというのがあると思いますね。政党に所属するのと似ていると思うんですが、政治も宗教も生活と離れているから、逆に皆さんがどういうきっかけで教会に行っているのか気になります。
――アルテイシアさんは在学中、教会に行かれましたか?
アルテイシア 中学1年生の時は宿題があったので、友だちと近所の教会に行っていました。でも、それ以外だとキリスト教徒になる子とか、教会に通う子は少なかったですね。
私は中高時代にキリスト教の子たちとも一緒に過ごしてこられたので良かったですけど、一般の人からしたら「こんなこと言ったら怒られるんじゃないか」という意識が強いと思います。
渡邊 だからやっぱり、あの恐れを知らなかったころに戻って何も考えず本音が言えるような関係を保てるのが、健全な宗教性だと思うんです。
アルテイシア 湾岸戦争が始まった中学生の時、聖書の時間に「祈りましょう」って先生が言ったら、1人の生徒が「祈ってなんとかなるの?」「何の意味があるの?」と怒っていたことを鮮明に覚えています。そういう率直な感覚、大事ですよね。
渡邊 若さで全部片付けられてしまうけど、実は核心を突いていることが多い。教会も本来はそういうはつらつとした場所であるはずですよね。政治もそういう場所であってほしいと私は思っています。
*対談の全文は次号の『別冊Ministry』に掲載。