今日4月18日は山本五十六の命日です。連合艦隊司令長官として、1941年の真珠湾攻撃を指揮し、その2年後に戦死しました。
生まれた時の父親の年齢から五十六と名づけられたことは有名。少年時代を過ごした新潟で、日本組合基督教会の長岡教会(現在・日本基督教団)に出席していました。アメリカン・ボードの宣教師H・B・ニューウェルが1887~92年、私立長岡学校(現在・新潟県立長岡高校)の英語教師をしながら長岡教会を応援していたとき、その日曜学校に通っていたのです。
また、兄の高野丈三は、長岡教会で教会生活を送った後、築地福音教会(米国福音教会による)の牧師になり、その後、1889年から千葉県東金市で開拓した東金教会(現在・日本基督教団)には、少壮の士官だった五十六がしばしば訪れました。
長男の義正はこのように述懐しています。
牧師になった父の兄丈三伯父の影響から、キリスト教にも深い理解をもっていた。もちろん後年外国生活のあいまには、キリスト教のしきたりや慣習に親しむ機会も多かったはずである。また、少年時代にも米国の宣教師のところへいき、バイブルの勉強をしたらしい。(『父・山本五十六──その愛と死の記録』光文社)
1901年、広島県江田島にあった海軍兵学校に入学しますが、座右には聖書を置いていたため、友人と聖書を読む理由について論争したこともあるといいます。遺品の中にも、米国聖書教会発行の小型版欽定訳新約聖書(詩編付き)があり、現在、山本五十六記念館(長岡市)に収蔵されています。
このようにキリスト教に対する理解も深かったため、早くから米国との戦争を避けようとしていました。真珠湾攻撃を指揮することになったのは、航空攻撃で一挙に決着をつけて早期に講話に持ち込むつもりだったのではないかとも言われています。