前回の「異端ってナニよ?その1」であれこれとわき道にそれた話をしましたが、要はこういうことです。「異端は正統と主張する存在がいてこそ、切り分けられる」。もっとストレートに言うなら、「正統という主張は、言ったもん勝ち!」です (笑) 。
こんな身もふたもないことを言ってしまうと、ツイッターなどで炎上(これも新手の商法かも?)するかもしれませんが、歴史的に見ても、これは正鵠(せいこく)を得ている表現なのです。
そもそも、イエス・キリストが天に還り、残された弟子たちが「キリスト教」を始めたとき以来、常に「異端」は存在してきました。言い換えるなら、常に「私たちこそ正統だ」という主張は生まれ続けてきたのです。そして、なぜそんな「正統宣言」をしなければならないかというと、歴史は常に動態であるのに対し、人間が作った「組織」や「教理」は常に静態とならざるを得ないからです。
本の中古販売店に行ってみて下さい。彼らが決して買取しないジャンルの本があります。それは、パソコンなどのノウハウ本です。新書を基本的に扱ういわゆる「書店」では、こういったノウハウ本はよく売れます。しかし中古販売専門の本屋では、こういうノウハウ本は受け付けてくれません。なぜか?それは、ノウハウ本は常に「時代遅れ」だからです。小説やベストセラー本などは、いくら時代を経てもその面白さは変わりません。しかしパソコンや携帯電話などのノウハウ本は、時代とともに「使えない」ものに変わり果ててしまいます。考えてみて下さい。未だにWindows95や2000を使っている方がどれくらいいると思いますか?その当時「最新」であったものでも、時代とともに「時代遅れ」にならざるを得ない。なぜなら、時代は常に動いており、ある一時点で「最新」を形成した事物は、それ以降古くなっていくのが宿命です。この原則は、キリスト教会においても同じです。
しかしこれを認められないのが、宗教の「宗教」たる所以です。いつの時代も、自分たちとよく似た主張をしながら、それでいてなぜが自分たちよりも「イケてる」と思わされる新興勢力に対し、近親憎悪を抱き、彼らを亡き者にしてやりたいという衝動は起こってくるものです。その最たるものが「宗教改革」時代の対立です。
カトリックはルターたちプロテスタントの主張を「異端」としました。当然プロテスタント側もカトリック、特に教皇を『悪魔』と表現し、糾弾しました。そもそも「カトリック(普遍的)」という表現も、東方教会と「聖画像論争(キリストの絵画や像を礼拝堂に飾ることの賛否を巡る争い)」、そして「フィリオクエ論争(聖霊が父からのみでなく、子であるキリストからも注がれるかどうか、という神学論争)」を繰り広げた結果、最終的に西方教会を言い表す表現として落ち着いたのです。ちなみに東方教会は「オーソドクス(正統的)」を主張しました。この違いは、「本家」と「元祖」の違い位、第三者にとってはどうでもいいものだったのかもしれません。少なくとも、プロテスタント諸教会にとってはそう見えたでしょう。
互いが「普遍的」「正統的」と主張し、互いに相手を「異端」と宣告し合うその根底には、「自分たちが正しい」という正統意識が根強くあったゆえでしょう。
19世紀になると、米国で同じような現象が起きました。「エホバの証人」「モルモン教」と今では表現される団体が急成長を遂げます。これがいわゆる「第二次覚醒運動」の時期と重なる部分が大きいのは、決して偶然ではないでしょう。
ある教え・考え方が「宗教」として一形態をとることは否めません。しかしそれが「歴史性」を帯びるとき、つまり単にカルト的で一時期に隆盛を極めるだけでなく、多くの世代、様々な地域に住む人々を束ねるアイコンとなっていくとき、どうしてもこの「異端問題」はついて回ることになるのです。なぜなら、ある一時点で「真理」が固定化され、後の時代になってもそれが決して揺るがされることはない、と人は思いたいでしょうが、現実はそうではないからです。
既存の型をしっかりと持っている「宗教」であればなおさら、「型破り」現象は起こり得ます。「型破り」という表現は、これこそ「異端宣告」に他なりません。自分たちを「正統」と見なす人々が、相手をどうしても手なずけられない時に用いる常套手段です。
では「異端」はいけないことなのでしょうか?近視眼的に見るなら、そうなるでしょう。正統性を主張する側にとって、自分たちと異なる主張は「和を乱す」ことになりますから。しかし長期的視野でこれらの現象を見るなら、それは「宗教」が歴史性を帯び、時代や世紀を越えて存続するために必要な「新陳代謝」を生み出している健全な姿とも捉えることができるでしょう(嗚呼、こんなこと書くからまたボコられるんかなぁ…(笑))。
それなら、どんな対処法が求められるのでしょうか?私が提案できる最善の方法は、「放っておくこと」です。「距離を取る」と言ってもいいでしょう。イエス様も次のようにおっしゃっておられるじゃないですか!
マタイ13:24-30
イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
うーん、聖書の言葉で締めるなんて、なんか「正統的」な終わり方だなぁ!