かつて松山というところで丁稚奉公(でっちぼうこう)をしていた時のこと。その教会には多くのゲストが毎週のようにやってきました。インドやマレーシア、アメリカや韓国・・・。毎回「お国柄」というか、様々な文化に触れられるということで、あっという間の4年間だった気がします。
そんなゲストの中で、今でも忘れられない体験があります。それは確かインドから来られた牧師先生と交わった時のこと。彼が空港からスーツケースを引っ張って私たちの前に現れました。結構大きめの、そしてカッコいい形のスーツケースでした。そのことを先生に告げると「そう、これはサムソナイトなんだよ」と得意げでした。私はまじまじとそのスーツケースを見ました。なぜなら、よくよく見てみると、そのスーツケースのロゴにはこう書いてあったからです。
「Sansonite」
あれ?なんかモヤモヤしてきたぞ?よく読むと、「Sa-m-sonite(サムソナイト)」ではなく、「Sa-n-sonite(サンソナイト)」ではありませんか「m」ではなく「n」になっている!私は得意げな先生の顔を二度と見られなくなりました。だって、これはサムソナイトのバッタモン、つまり偽物だったからです。
古今東西を問わず、多くの「正統」派は、その権威にあやかろうとする「偽物」を生み出してしまいます。某国の警察は「●滅キャラ」をパクリました。でもそれを「オリジナルだ」と主張してはばかりません。もちろん「正統」がちゃんと認めて類似品を流布させることもあります。例えば、スター●ォーズのスピンオフ、「ローグ・●ン」や「ハン・●ロ」のように(前者は傑作でした。しかし後者は… まあこの話はやめておきましょう)。
いずれにせよ類似品が跋扈(ばっこ)するということが、「正統」の真正性を担保するという事態が発生しています。このような類似品が拡大していくとしたらどうでしょう?とうぜん「正統」派は自らの正統性をしっかりと証明しなければならなくなります。方法は二つです。
一つは、類似物と自分たちとの差異を強調し、「あの部分が私たちとは違っています」と主張することです。しかしこれだけでは、単に「違う」ということしか示せません。例えば先ほどのスーツケースのように「サムソナイト」であろうと「サンソナイト」であろうと、商品として出回ると言う意味では、消費者の選択の結果が売り上げに反映されるわけですから、違いを強調するだけでは、正統性の証明になりません。だからもう一つのことをするのです。それは、自らを「正典化」することです。
「正典」とは、端的に言うと「誰がなんて言おうと、これがオリジナル!」と主張することです。「ア・プリオリにこれが基準」ってことです。一方、私たちはこの世に生まれて、ア・プリオリにすべての事を理解し把握しているわけではありません。むしろ五感を通して、体験的に物事を学んでいきます。すると、「正典」というものも「そう考えるべきだ」というアイデアを後から植え付けられることで受け入れていく、というプロセスを通ります。
何度も例に出してしまいますが、私の大好きなスター●ォーズでは、この「正典」を巡る論争が常に絶えませんでした。ご存知のようにこのシリーズはジョージ・ルーカスという稀代の映画監督が生み出した物語です。最初にエピソード4・5・6が作られ、後に1・2・3が生まれました。言うなら、最初の4・5・6が新約聖書で、1・2・3が旧約聖書のようにコアなファンからは思われています。しかし2015年、ルーカスはこのシリーズに関するすべての権利を、ネズミをモチーフにした会社に売り飛ばしてしまいます。そして7・8・9作を製作したのです。これにファンは怒りました。しかもルーカス抜きで続編(シークエル)を始めたからです。
「俺たちが知っているスター●ォーズはこれじゃない!」「ルーカス抜きのシリーズなんて邪道だ!」と、人びとは新シリーズをまさに「異端」視し、旧来のルーカス印6作を「正典化」したのです。ネズミ会社(●ィズニー)は何とかこの差異を埋めようとして、旧作の登場人物をそのまま登場させました。でもそれは、火に油を注ぐことになりました。「俺たちが知っているルークは、そんなことしない!」「なんで○○を殺すんだ!」と、それはもう、大変な盛り上がり?いえいえ、炎上でした(もちろんネズミ会社はそう言うことも含めて、興行成績を上げようと画策したのですが…)。
しかしこのようにシークエルをボロカスに言う人たちは、かつて4・5・6と1・2・3との違いについても非難の応酬をしていました。1970年代から80年代の旧シリーズと、1990年代から2000年代にかけてのプリクエル(前日譚)の違いを声高に叫び、前者を「正典」と訴える人がいました。一方、同じルーカスが作った作品なんだから6作まとめて「正典」とすべきだ、と主張する人もいました。その論争は、7・8・9が生まれてさらに激化しました。各々がそれぞれお気に入りの「正典」を持ちだして、かみ合わない議論(ヲタ話はこれがたまらないそうですが…)をああでもない、こうでもないと繰り返してきたのです。
この、一見不毛な議論によって何が生まれたでしょう?実は、「正典」を巡る争いによって、「正典」の余剰物、つまり「異端」が生まれたのです。「異端」とは、異端そのもので存在することはできません。「正典」があって、それとの距離感によって「異端」の烙印が押されるのです。何が言いたいのでしょうか? そう。「正典」とは、「言ったもん勝ち」だということです。(おお!こんなことを言う牧師はやはり「異端」なのでしょうか?(笑))
あれ?キリスト教の話をしているのに、一向にそんな流れになりませんね?従来の基準からすると、このコラムも「異端」ですか? 次回は、これらのことを踏まえて、真面目にキリスト教史からひもといていきます。お楽しみに!