1月15日「礼拝」

礼拝とは、わたしたちの神への飢えを満たすものではない。礼拝はわたしたちの飢え渇きを刺激する。わたしたちの神への欲求は、礼拝に参加することで解消されるわけではない。その欲求は深まる。神への欲求は時間と共に溢れ出て、その週に染みこんで行く。その必要性は平和と安全を求めることを通して示される。わたしたちの日々のニーズは、礼拝に参画することで変わる。わたしたちは卑(いや)しい存在から可能な限りベストな存在になるために貪欲に人間の猛烈な出世競争を駆け上るように、もはやその日暮らしをするのではない。わたしたちの根源的な必要性は突然「神の似姿」に創造された被造物の威厳に値する存在となる。つまり平和と安全である。シャロームshalomシャルヴァshalvahという言葉は礼拝の場所「エルサレム」ジェルシァロム jerushalomの音で奏でられる。

シャロームshalom「平和という意味」は聖書の中で最も豊かな意味を持つ言葉の一つである。あなたがたが社会保障番号で、ある人を定義するのと同じように、辞書で調べてシャロームの意味を定義することはもはや出来ない。単語シャロームとは神の御心がわたしたちの内で成就することから由来する全きものが蓄積している言葉である。それは神の御業である。それが完結すると、わたしたちの中に生ける水の流れを放出させ、永遠の命と共に波打つのである。イエスが誰かを癒し、赦(ゆる)し、呼び招く度ごとに、わたしたちはシャロームshalomを実演しているのである。

シャルヴァshalvahとは「安全」という意味である。それは保険契約や多額の口座残高や武器の備蓄とは無関係のものである。その言葉の根源は余暇を意味する。神がわたしたちの上にいて、わたしたちのためにイエス・キリストがおられるので、全てが大丈夫だと知っている人のリラックスした状態を意味する。それは十字架が中心にある歴史の中に身を置く安心感である。それは、わたしたちの存在全ての瞬間が神の御心のままになり、神の恵みの元で生かされていることを知っている人の余暇でもある。

礼拝とは平和と安全に、広くかつ日々参画することを始めることである。そうすれば、神がイエス・キリストによって始められ、継続していることを、わたしたちは日々分かち合うことが出来る。

「神の家に行こう」と人々が言った時
わたしの心は喜びで踊った。
わたしたちは今エルサレムにいる。
あぁ、エルサレムの壁の中にいる!
― 詩編122編1~2節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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