障がいをもつアメリカ人法 制定から34年「今もその役割を果たし続けている」

 「障がい者のいる教会は、より輝く教会である」。ラス・イーウェル氏(ベイエリア・キリスト教会牧師)が「レリジョン・ニュース・サービス」に寄稿した。


私の長男が生まれたのは1991年で、ちょうど「障がいをもつアメリカ人法」(ADA)が制定された翌年だった。彼は出生時にダウン症と診断され、ハイハイできるようになるため、生後わずかカ月で理学療法が必要だった。

青年に成長した現在までに、多くのことを克服するために戦わなければならなかった。しかし、ADA以前からの親たちとの会話によると、私たち夫婦は比較的恵まれていたようだ。

 ADA以前は、特別な支援を必要とする生徒や障がいを持つ生徒は、多くの公立学校システムに事実上収容されていた。親は、自分の子どもが粗末に扱われていると感じても――実際、粗末に扱われていた――ほとんど訴えることができなかった。

一方、障がいのある大人は、ただ彼らが身体的に階上に上れないとかドアを通れないという理由で、日常的に職場で差別を受け、レストラン、学校、教会などを訪れることができなかった。

 34年前、ADAがこの状況を変えるきっかけとなった。199026日、人々や施設は、障がいや特別なニーズを持つ人々をそのあり様:「人」として認識することが法的に義務づけられた。ADAは、典型的であろうと非典型的であろうと、すべての人を尊重し、受け入れることをアメリカ国民に教え始めたのである。

この勝利は突然もたらされたものではない。障がいを持ち特別な支援を必要とする人たちが、何十年にもわたり、たゆまぬ努力を続け、時には感謝もされないような仕事をしてきた結果なのだ。彼ら、そして彼らの家族、友人、地域社会がADAの実現に貢献したのである。

特別なニーズや障がいを持つ人々が正義を知るためには、ADAによる物理的アクセスの確立と差別の禁止が不可欠である。しかし、私たちが法の精神を完全に受け入れない限り、彼らは活躍することはできない。社会的、精神的なアクセシビリティなくして、彼らの真の繁栄はありえない。

私たちは、差別や身体的な障がいに対してだけでなく、彼らのために生き、努力することを学ばなければならない。

この取り組みにおいて、教会は特に重要な役割を担っている。これまでのところ、物理的なアクセシビリティの問題が解決されつつあるにもかかわらず、残酷な偏見やその他の「ソフトな」アクセシビリティの障がいは依然として蔓延している。クリスチャンは、障がい者のためのアドボカシー、そして彼らが私たちの社会に対等な存在として完全に包摂されるためのアドボカシーをリードすることができ、またリードすべきなのだ。

貧しい人々を助けるようにという聖書の命令を考えてみよう。多くのクリスチャンはそこで立ち止まり、この使命は肉体的な貧困を緩和する働きのことだと結論づける。これは間違いなく重要な仕事である。しかし、イエスは信じられないほど多くの時間を障がいのある人々と過ごされた。

貧困の緩和とは、物質的な欠乏に対処することだけではない。世の中から疎外されている人々を見つけ、愛し、高揚させることなのだ。教会には、世の中が採用し向上させる、障がい者の積極的、変容的な受け入れの強力なモデルを構築するチャンスがある。

私が牧師を務める北カリフォルニアのベイエリア・キリスト教会では、建物や敷地を物理的に利用しやすくし、感覚に問題を抱える人々にも包摂的(インクルーシブ)な空間を提供している。これは重要なことである一方、真のインクルージョンは物理的なものを超えて文化に浸透している。

私たちは、どのようなニーズや能力を持つ人であっても、教会生活に完全に溶け込めるような社会的・教育的プログラムを用意している。私たちは地域全体でインクルーシブ・スポーツやアクティビティを実施しており、特別な支援を必要とする子供たちも一般的な子供たちと一緒に参加することができる。そして私たちの願いは、他の教会も同じことができるように支援することだ。

これはヒロイズムではない。イエスが私たちに求めたこと以上のことではない。

イエスはただ、重い皮膚病の人々を癒やしたのではない。彼らに触れて、愛されたのだ。そして、これこそがクリスチャンがイエスに従うよう求められているところなのだ。率直に言って、このような行動がもし大規模に行われるなら、私たちの社会をより良いものにするだろう。

もちろん、教会がその壁の内外で包摂性を強く推進すべき理由は他にもある。より包摂的な教会は、より公正で、より思いやりがあり、より誠実な教会であり、ますます懐疑的になっている人々にアピールしやすい教会である。正義と平等を追求する強い傾向を持つ有能な若者を惹きつけ、維持する可能性も高くなる。

より包摂的な教会は、より輝く教会でもある。クリスチャンは、彼らが召されているように、特別なニーズや障がいを持つ男女が感じているとてつもなく感じられるニーズに寄り添うことで、世界を変える素晴らしい機会を持っている。そして、善が輝けば輝くほど、より多くの人々がそれに触れることになる。

人生の儚さ、尊さ、苦難、喜びに対するとてつもない感受性は、特別なニーズや障がいを持つ人々との関係から生まれる。そして感受性は、少なくとも最初は、しばしば不快感を与えるものである。少なくとも私にとってはそうだった。しかし、不快感を無関心や恐怖、偏見に固定してはならない。

 ADAは終わりではなく、始まりであることを忘れてはならない。障がい者とその擁護者たちは、彼らの権利のための道を開くために戦った。彼らは仕事を始めたのだ。私たちはそれを終わらせる手助けをしなければならない。私たちの世界において、すべての障がい者がより大きな、全体的な包括性を経験できるようにするのは、私たち全員にかかっている。

(翻訳協力=中山信之)

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