アメリカ人クリスチャンと反米の誘惑

Image by Cianna Woods from Pixabay

クリスチャンがアメリカを愛することができるのは、その欠点や失敗のすべてを含め、アメリカが神の王国であることを期待していないからに他ならない。「クリスチャニティ・トゥデイ」編集長のラッセル・ムーア氏による論考。

ここ数年のアメリカ生活において、政治的な考え方が証明されたとすれば、私は「馬蹄理論」――極端に言えば、左派と右派は互いに屈曲し、時にはほとんど区別がつかなくなるという考え方――以上の候補を思いつかない。

これを見る方法の一つが、暗澹たる気持ちにさせられるアメリカ合衆国の姿である。問題は、最近の右派や左派の過激派がアメリカを憎んでいるように見えるかどうかよりも、なぜ憎んでいるのかということだ。

15年以上前、当時の大統領候補バラク・オバマの選挙キャンペーンは、オバマの教会の牧師であるシカゴの伝道師ジェレマイア・ライト氏の説教ビデオテープによって動揺させられた。その中でライトは、ジョン・F・ケネディ暗殺後のマルコムX(1960年代のアフリカ系アメリカ人急進的黒人解放運動指導者)を彷彿とさせる言葉で、2001年9月11日の同時多発テロを「鶏がねぐらに帰ってきた」と語った。

ライト氏は “God bless America”(アメリカに神のご加護を)という考えを否定し、代わりに “God damn America”(アメリカに神の災いを)と呼びかけた。この論争が長続きしなかったのは、ほとんどのアメリカ人がライト氏に同意したからではなく、オバマ自身がそのような考えを持っていると信じる人がほとんどいなかったからである。実際、オバマは彼の牧師を否定し、教会を去った。

ライト氏の殺伐としたアメリカ観は、少なくともベトナム戦争以降、アメリカ左翼のさらに奥にある特定の筋にとっては珍しいものではなかった。既存の社会の根幹に関わる制度や規範、文化に対して、反発する価値をその存在意義として掲げる集団によって形成されるカウンターカルチャーの抗議者たちは、かつてアメリカの国旗を燃やし、アメリカを帝国主義の独裁国家と同一視して“Amerika”(Americaのドイツ語=ナチスドイツを連想)と呼んだ。

近年では、「1619プロジェクト」のようなイニシアチブは、奴隷制度と体系的な人種的不公正がアメリカの原罪であり、現在進行中の苦闘であるという、確立された真実を超越している。彼らは、事実、建国が初めから実際に奴隷制度を基としており、つまり、アメリカの人種差別は独立宣言の理想にそぐわないものであり、救いようのないものなのだ、と主張している。

これが「文化戦争」であるならば、右派が「アメリカ:それを愛するか去るか」の相違という愛国心としての伝統的な価値観を守ることになると予想されるだろう。しかし、ポピュリスト右派のより先鋭化した部門からは、どちらかといえば、さらに殺伐としたアメリカ観が見て取れる。

デイモン・リンカー氏は、右派の「非リベラル」な知識人たちが語る暗い世界観について詳述し、ニューヨーク・タイムズ紙のコラムニスト、ポール・クルーグマン氏に「右派はなぜアメリカを憎むのか?」と問うよう駆り立てた。コックピットを充電して地球に落下させるべきアメリカン・プロジェクトという「93便」(9・11同時多発テロでハイジャックされペンシルバニア州ピッツバーグ郊外に墜落したユナイテッド航空93便)観のコンセプトは、確かに「アメリカに再び朝が来た」からはかなりの変化である。

実際、ゴモラ(旧約聖書 創世記13章、古代パレスチナの都市、繁栄を極めたが住民の邪悪さのためにソドムとともに神に滅ぼされた)に向かってまた新たなバビロン(紀元前587年エルサレムを陥落させイスラエルの民を捕囚した王国)としてのユナイテッド・ステイツというキリスト教的な言葉の種類は、かつて敬虔さをアメリカニズムと同化させていたとは言わないまでも混同していたような一種の市民宗教を謳った人々よりも、アメリカの「帝国主義」についての左翼の批判の方によりしっくり来る。

私は少し前まで、「『神と国』を信奉するキリスト教徒は、なぜこれほど非愛国者になったのか? なぜ自称『キリスト教ナショナリスト』の多くが、自分たちの国を憎んでいるように見えるのか? なぜ多くの進歩主義者は、いかなる進歩にも否定的なのだろうか?」と自答していた。

実は、これは私たちを当惑させるものではない。心理学者は、理想を描いては捨ててしまうような人格障害者のカテゴリーを持っている。配偶者が精神的、感情的、肉体的な欲求をすべて満たすことを期待され、完璧な「ソウルメイト」になる人は、たいてい離婚に向かう。子どもの功績を中心に人生のすべてを構築する親は、大抵の場合、子供と疎遠になるか、あるいは子どもを憎むようにさえなる。重要だが究極ではないものを、究極であると期待するならば、それを愛することはできない。

偶像崇拝は常にそうだ。私たちは偶像に、彼らが決して果たせない意味や目的を果たすことを期待する。偶像が私たちを失望させると、私たちは偶像を拒絶し、偶像に対して激怒する傾向がある。

上方に動きつつまたユートピア的な未来という視野を持つ進歩的な人は、究極的にはユートピアに足らないことに憤慨するだろう――たとえそれが、リベラル・デモクラシーのような、正義と人間の繁栄に寄与するユニークなエンジンであったとしても。また、過去の黄金時代(米国19世紀末~20世紀初頭)を理想化した保守主義者は、やがてその幻想に沿わない時代に憤慨するようになる。

期待に応えられない救世主は、期待に応えてくれると信じているバラバ(イエスと同時に十字架刑に架けられた強盗・囚人だが、イエスの代わりに恩赦を受け釈放された)のためにすぐに捨て去られる。

アメリカの建国者たちは、キリスト教プロパガンダ(というか「嘘」として知られる)が私たちに伝えてきたようなクリスチャンのモデルではなかった。この同じ建国者たちは、他のプロパガンダが彼らを特徴づける、漫画の超悪玉でもなかった。彼らは、自分たちが決して到達できなかったもの、そして私たちも到達しないものを目指した罪人だったのだ。彼らが天才的だったのは、そうした緊張を拭い去ろうとしなかったことだ。

『E・ シャーロットの巣』や『スチュアート・リトル』の作者であるE・B・ホワイト氏は、アメリカ人の全世代に文法と文章術を教えた。私たちの多くは、高校時代の学期末論文で『Strunk and White Elements of Style』から逸脱していると指摘された。

1936年、ホワイト氏は合衆国憲法が神聖な文書ではないだけでなく、文法的な文書ですらないと主張した。ホワイト氏は、「われら合衆国民は、より完全な連帯を形成するために」という表現は、「多くの文法学者の胃を逆なでするような言葉であり、完全性とは程度を問わない状態である」と指摘した。何かは完全か不完全かのどちらかである。それは「より完全」でも「より不完全」でもあり得ない。

しかし、この場合だけは、ホワイト氏はルールを犠牲にすることを厭わなかった。「几帳面な起草者なら、『完全な連帯を形成するために』――私たちの祖先が、文法の形でさえあえて予言しなかったこと――と単に書くだろう」

キリスト教的人間観は、完璧を求める主張と、「より完璧なもの」を目指す願望を区別する私たちを解放してくれるはずだ。

どの時代も恵みに貫かれており、エデン(人類の祖アダムとエバ在の地)以来のどの時代も神の栄光には及ばない。私たちが親や子供や配偶者を愛することができるのは、彼らに欠点があるからではなく、彼らが私たちの神となることを意図されていないからなのだ。

アメリカ人である私たちは、アメリカに欠点や失敗があっても、それが神の国であることを期待していないからこそ、アメリカを愛することができるのだ。

キリスト教ナショナリズムは、究極的なものと近接的なものを混同しているため、愛国主義に終わることはない。進歩的なユートピア主義も同じであるため、決して愛国主義には至らない。

しかし、純粋に神の国を第一とするキリスト教は、私たちをナショナリズム、ナチズム、完全主義から解放し、神と国を真に愛することができるし、そうすべきなのだ。なぜなら、私たちはその二つの違いを知っているからだ。

(翻訳協力=中山信之)

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