【映画評】 チェーンソーで始まるフェミニズム 『愛に乱暴』

毎朝義母のゴミを捨て、家を隅々まで掃除し、高価な調度品を少しずつ揃え、手の込んだ夕食で夫の帰りを待つ。おしゃれな石鹸教室の講師として週2回パートで働く。手に取る物の匂いを嗅いで快と不快に分け、前者に満足して後者を排除する。『愛に乱暴』はそんな桃子の「丁寧な暮らし」を描いて始まる。

桃子は企業でキャリアを積んで後、結婚退職して8年。「専業主婦になって家庭に収まる」という昭和の女性の典型的なライフプランに倣い、完璧に家事をこなしている。しかしここへ来て夫に浮気を告白され、離婚を切り出され、その立場の脆弱さに否応なく直面させられる。

専業主婦は桃子がそうであるように、夫に経済的に頼らざるを得ない場合が多い。「外で働く夫を支えて家庭を守る」という伝統的家族観においてそれは当然であり、懸念の声はなかなか上がらない。もちろん離婚など想定されていない。しかし実際には、さまざまな事情で離婚を選択する夫婦が少なくない。そして結婚によってキャリアを断絶させられたり、そもそもキャリアを築けなかったりした女性がその不利益を被りやすい。桃子と同じく、再就職(自立)が困難だからだ。熟年層の女性の貧困率が高いのはその影響もあるだろう。

キャリアウーマン(あるいは共働き女性)と専業主婦の「対立」や「比較」が定期的に話題になるが、こうして桃子はそのどちらからも弾き出されてしまう。キャリアウーマンでもなく専業主婦でもない女性は、一体何になれるのか。何になれば良いのか。夫に離婚を切り出された桃子がそれでも家のリフォームにこだわったり、夫に何時に帰るのか尋ねたりするのは、その問いからの懸命な逃避、頑ななまでの現実否認に見える。

しかしキャリアウーマンと専業主婦は対立関係にあるというより、むしろ桃子のように連続的な(そして実質不可逆的な)関係にあることが多いだろう。就職してしばらく働いた後、結婚して「家庭に収まる」のがまだまだ推奨される女性の生き方だからだ(制度的な後押しもある)。にもかかわらず、そういう実態が無視されて両者が「女同士の争い」に回収されやすいのはなぜなのか。

本作にもそんな「女同士の争い」がいくつか登場し、桃子は自分のテリトリーを守るために戦わざるを得ない。義母の照子と。夫の愛人の奈央と。そして後半に、その存在が明かされる人物と。しかしどの争いにも、その中心には夫の真守(まもる)がいる。むしろ真守のせいで争いが起きている。にもかかわらず真守自身は不在だったり、簡単に免責されたりする。終盤、桃子の行動に怖気付いた真守がついに本音を吐露し、「全部俺が悪い」と認めるが、その言葉は結局のところ何の解決にもならない。専業主婦の桃子と違って、家父長としての真守の立場も特権も、決して揺るがないからだ。ここに、従属的な立場に置かれた女性たちが右往左往する陰で、しっかりと温存される家父長制と男性中心主義がある。

Ⓒ2024「愛に乱暴」製作委員会

一方で江口のりこ演じる桃子のタフさ、したたかさ、突拍子のなさは笑いを誘うし、チェーンソーを易々と操る姿は爽快でさえある。最後のシーンの桃子の表情は、彼女がすべての戦いに「勝った」かのようにも錯覚させるだろう。しかしそういったコメディ化は彼女の被害(多くの女性が現実に被り得る被害)を舞台装置の一つに矮小化しかねない。結局大したダメージではなかったのだろう、むしろ再出発の良い機会になって良かったではないか、などと。しかしそれは個々人が努力すれば問題を解決できるし、幸せになれるのだという、新自由主義的発想に他ならない。

とはいえ、徐々に常軌を逸していく桃子の姿が本作の見所の一つなのは間違いない。庭に食材を投げ出し、鼻唄を絶叫に変え、裸足で駆け出す姿は見ていて辛いが、同時に「丁寧な暮らし」という仮面を脱ぎ捨てた彼女の、本音があふれ出してカタルシスを覚える。軒下の秘密を掘り出す場面はそのピークだ。桃子は野良猫の「ぴーちゃん」に終始こだわり、執拗に探し回るが、彼女が本当に求めていたのはおそらく野良猫ではないし、軒下に埋められた秘密でもないし、真守ですらない。それはすでに失われ、もう手に入らない。姿が見えない猫の鳴き声は、その象徴ではないのか。

桃子がチェーンソーで自分の家を切り刻む姿から、旧約聖書のサムソンを想起する。神から授かった怪力を失ったサムソンは敵の手に落ち、見世物にされるが、敵が集まる建物の柱を砕いて崩壊させる。すべてを失ったサムソンの最期の復讐だ。桃子の破壊行為にも似たような目的を感じる。ただ建物の崩壊でサムソンは死んでしまうが、桃子はそれを優雅に眺める。家父長制にも男性中心主義にも負けてたまるか、と言っているようにも見えるその姿は、彼女の中のフェミニズムの萌芽を思わせる。

(ライター 河島文成)

8月30日(金)より、全国ロードショー

『愛に乱暴』
公式サイト:https://www.ainiranbou.com/
配給:東京テアトル

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