「主が共におられる」という祝福を急いで告げよう
2015年12月20日 降誕節第4主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。
ルカ1:39~45
待降節第4主日を迎えています。祭壇の前のアドベントのろうそくは4本とも火がともりました。そうすると、その週のうちにクリスマスがやって来ることになります。
救い主の誕生を待ち望む待降節第4主日、「主の降誕」の直前の日曜日に読まれた福音の箇所では、ついにイエスさまが登場しました。でも、母マリアのおなかの中というかたちでの登場です。
同じように、エリサベトのおなかの中には洗礼者ヨハネがいます。お母さんのお腹の中で、二人が出会っているのです。
「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶(あいさつ)した」とあります(ルカ1:39~49)。
マリアのした挨拶とは、どんな挨拶だったのでしょうか。今日の箇所には特に書かれていません。でも、福音書の前後を読んでいくと、私たちにヒントを与えてくれることが書かれているのに気づきます。
「そのころ」とありますが、それは、天使ガブリエルがマリアのところに来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(28節)と挨拶した時です。マリアはこの言葉に戸惑い、「いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(29節)。そういう出来事があった「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」のです。
マリアがエリサベトにした「挨拶」とは、天使がマリアにしたのと同じ挨拶だったと考えていいのではないでしょうか。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」という挨拶をマリアは、「お言葉どおり、この身に成りますように」と受け取りました(38節)。そして、マリアは急いでエリサベトのところに行きました。いただいた挨拶を、今度は人に告げる者になっていったのです。
マリアが天使からお告げを受けた「ナザレというガリラヤの町」(26節)から「ユダの山里」までは100キロくらいの距離がありますから、3、4日はかかる道のりだったそうです。その道のりを急いだのです。
福音書の中には、ある人が「急いでいく」という場面がいくつも出てきます。いずれも、良い知らせを伝えるために急いでいます。
墓穴にイエスの遺体がなかったのを見つけた婦人たちは、天使たちに会い、弟子たちに知らせるために走りました(マタイ28:8参照)。またエマオの二人の弟子は、パンを裂いてくださった時に「イエスだと分かった」(ルカ24:31)。その時、「時を移さず出発して」(33節)、エルサレムの仲間のもとに戻りました。何とかしてこの良い知らせを告げなければならなかったからです。また、天使の知らせを受けた羊飼いたちも、幼子イエスのもとに「急いで行」きました(ルカ2:16)
マリアは、天使から挨拶を受けました。この挨拶は祝福と言ってよいものです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」
この祝福をマリアは初め、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と驚きました(34節)。しかし天使が、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」と言った時(35~37節)、マリアは「お言葉どおり、この身に成りますように」と言って、その神の言葉を受け取ったのです。
「お言葉どおり、この身に成りますように」の「とおり」は、もともとのギリシア語では「カタ」という言葉が使われています。「~に下っていく」という、固有の方向性を持った言葉です。マリアは「神の言葉」の中に下っていき、そこで「この身に成りますように」と受け止め、ゆだねたということです。
「神が共におられる」という神の言葉の真実の中に下って、そこで生きる者となったマリアは急ぎます。いただいた祝福を、今度は人に告げるためです。
天使ガブリエルが告げた祝福は、マリアだけへの祝福ではありません。「主があなたと共におられる」という祝福は、全世界の人に告げられなければならない祝福です。
「主があなたと共におられる」。この祝福を受け取り、出会わせていただくならば、今度は私たちはそれを「告げる者」に変えられていきます。
イエス・キリストとは、人に祝福を告げる方です。その祝福の根源にあるのは「インマヌエル」、つまり「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)という神さまからの真実です。この祝福を携えて、人に祝福を告げる者になっていくということです。ご一緒にお祈りしましょう。