主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、ヨシュア記の23章です。よろしくどうぞ。
ヨシュア記 23章7節
彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
神様は「他の神の名を口にしてはいけないよ」と言っています。では現代日本において、たとえば「釈迦如来」と口にするのはいけないことなのでしょうか。もちろん、お釈迦さんに誓ったり、仕えたり、拝んだりするのはクリスチャンとしてふさわしくないことは感覚として理解できます。しかし、その名を口にするくらいなら良いんじゃないの?と思えてしまいますよね。
このことばが神様から与えられた当時は、何かの名を口にすればその存在の力を利用できると考えられていました。ですから「彼らの神々の名を口にしてはならない」というのは、「他の神の力を利用したり、あるいは利用しようとしてはならない」ということです。つまり、他の神に願い事をしたり、祈ったりしてはいけない、ということです。
有名な十戒には「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない」と記されています。これも同じ考え方で「神様にむやみにお願いをしたり、その力を利用しようとしてはいけないよ」という意味です。特に自分の欲望のためにそれをしてはいけないよ、という意味です。
ですから現代のクリスチャンがたとえば仏教について話すときに「他の神の名を口にしてはいけないから」と言って、「釈迦如来」という名を「あれ」とか「あのあれ」とか、
言い換える必要はありません。なんならむしろ、そうしてしまった方が「釈迦如来」に対する尊敬の念が生じてしまいますし、その力を認めることにもなってしまいます。「名を避ける」というのは一つの敬意の示し方として伝統的に存在するやり方ですから。
たとえば僕たちは織田信長を「織田信長」と呼びますが、実際に戦国時代に生きた人たちは彼のことを特に本人の前や公式の場で「信長」とはまず呼ばなかったそうです。それは「信長」という本名を呼ぶことは敬意を欠くこととされていたからです。ですから信長さんは実際には「お館様」とか「上総守」とか呼ばれていたそうです。これを「諱(いみな)」と言い、中国にも似たような文化があります。三国志の軍師として有名な諸葛亮も、当時は「亮」という名で呼ばれることはほとんどなく、「字(あざな)」を用いて「諸葛孔明」と呼ばれていました。昔の人はこのように「名を避ける」ことで敬意を示していたんです。
ですから今日の聖書の箇所を曲解すれば「他の神の名を呼んではいけない」というのは「他の神に敬意を示せ」ということにもなりかねません。でも実際にはそうではなく、「他の神の力を利用しようとするなよ」という意味です。ですからクリスチャンであっても単に釈迦如来を「釈迦如来」と呼ぶことだけなら、特に問題はないのかと思います。
「名」には、単に対象を他と区別して指定するという機能と、その対象に呼びかけて影響を与えようとする機能があります。この前者の機能として他の神々の名を使用することはクリスチャンとしても問題ありません。一方で後者の機能を用いて他の神々に呼びかけ、何かを伝えたりしようとするなら、それは問題になるということかと思います。
主にありて。
MAROでした。
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