主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、エゼキエル書の18章です。よろしくどうぞ。
エゼキエル書 18章2節
あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』という、このことわざを繰り返し言っているが、いったいどういうことか。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
エゼキエルが生きた頃のイスラエルには『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』ということわざがあったようです。これはどういう意味でしょう。彼らは親の罪によって、子まで罪人になると思っていました。親が罪人なら、子も罪のあるものとして扱うべきである、というような意味ですし、親の罪の責任は子も連帯して負うべきだというような意味でもあります。
しかし、神様はそんなことわざを口にする人たちに対して「いったいどういうことか」と怒っています。そして後に続く20節では
罪を犯したたましいが死ぬのであり、子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がない。正しい人の義はその人の上にあり、悪しき者の悪はその者の上にある。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
つまり「人は自分の罪で罰せられるのであって、親の罪は親の罪、子の罪は子の罪だよ!」と強調しています。
これは僕たちが暮らす現代の法体系から見れば、当然の理屈だと言えます。僕たちは親が殺人を犯したとしても、それによって子が罪に問われることはありません。まして罪を犯してしまった親が死んでしまった後まで、子に責任が問われることはありません。現代から見れば極めて常識的と思える理屈ですが、実は割と最近までこの理屈は少なくとも今ほどは「あたりまえ」ではありませんでした。たとえば親の罪を負って家族まで死を命じられるなんていうことは武士社会では珍しくありませんでした。「その人の罪はあくまでその人のものであって子や孫には継承されない」という原則は、現代秩序を保つ上では非常に重要なものです。とはいえ、一般社会でも「親が憎けりゃ子まで憎い」なんてことだってあるでしょうし、親の恨みを子に晴らすような人さえいたりします。聖書の時代も現代も、システムは変わっても人間の本質は変わらないんだなー、なんて思わされます。
こんなことを言うと、いやいやキリスト教って「アダムとイブの原罪を引き継いで、あらゆる人が罪人である」って言うじゃないか、という反論を受けるかもしれません。しかしこれは違います、アダムとイブから始まった現在というのは人間の「罪を犯してしまう性質」のことであって、罪そのものではありません。ですからキリスト教においても、人が罪によって裁かれるのはアダムとイブの罪によるのではなく、あくまで自分の罪によるのです。
ところで今年もまた8月になり、そしてちょうど今年は戦後80年だということもあって『戦後80年談話』を首相が出すのか出さないのかというのが話題になっています。仮に先の大戦で過ちを犯した人がいたとして、その人たちのほとんどはすでにこの世にはいません。いま生きているのは子や孫の代です。しかしその過ちを胸に刻み、二度と繰り返さないように身を正すことはたしかに子や孫の代である僕たちにもできることです。「親の罪を子に問わない」からと言って、「親の罪から子が学ばなくていい」ということにはなりません。先の大戦に限らず、僕たちは歴史を学び、歴史上の多くの失敗から学び、教訓を得て生きています。ですから「親の罪を無視しろ」というのは、「歴史を学ぶな」というのと同義です。
しかし一方で、「親の罪について子が謝り続ける」というのは、良いか悪いかというよりも、不可能なのではないかと思います。なぜなら加害者も被害者もすでに子や孫の代であって、当事者ではないからです。謝罪というのは「自分がやらかしたこと」についてできるものであって、たとえ親であっても「他人がやらかしたこと」についてはできるものではありません。それは一種の越権行為とさえ言えるでしょう。「他人がやらかしたこと」について、学ぶことはできても、誰も真に謝ることはできないんです。
どうも報道やらSNSやらでこの『談話』についての議論をみていますと、この「過去について学ぶ」ことと「過去について謝る」ことが混同されてしまっていて、それで議論が混乱してしまっているような気がしています。「学ぶということは謝罪するということか!」「謝罪しないということは学ばないということか!」と、すれ違った敵対関係が生じてしまっているような気がしています。難しい問題だからこそ、感情的にならずにもう一度頭を整理して考えてみたいと思いますし、首相をはじめとした偉い方々には冷静な判断をしていただきたいと思います。過去の過ちから学ぶことを放棄するようなことに、どうかなりませんように。一方で、親の罪によって子や孫を罪人だと宣言するようなことにも、どうかなりませんように。
ただ一つたしかに言えることは、僕たちはまず先人たちや親ではなく、自分自身のやらかしてしまった罪に対して、真摯に向き合うべきだということです。肝心なのは他の誰でもなく、自分自身がやらかしてしまっていないか、誰かを傷つけていないかをよく吟味することです。「国家」単位の巨大なことを考える前に、まず等身大の自分の胸に手をあてたいと思います。
主にありて。
MAROでした。
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