言葉は単に情報伝達ツールではない【聖書からよもやま話550】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。

本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は  旧約聖書、創世記の2章です。よろしくどうぞ。

創世記 2章19節

人がそれを呼ぶと、何であれ、それがその生き物の名となった。

(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

神様はあらゆる生物を作っては、アダムのところに連れて行き名前をつけさせました。名前というのは言語の一つですが、言語というのは単に人から人への情報伝達ツールであるだけでなく、人が何かを認識するために不可欠なツールでもあります。

人間というのは不思議なもので、名前のないものを認識することができません。反対に言えば認識しているものすべてに名前をつけます。名前がなければ呼ぶことができないだけでなく、認識することも難しいんです。ですから人間は目に見えないものにも名前をつけます。「よろこび」とか「恐怖」とか「愛」とか「死」とか。人間の認識する世界に何者かが存在するためには必ず名前が必要です。名前というのは何者かが人間の世界に出入りするためのパスポートのようなものです。

つまり神様がアダムに世界のあらゆるものに名をつけさせたというのは、あらゆるものを認識させたということであり、世界と人間とを結びつけたということです。もし名前、あるいは言語が単に情報伝達ツールであるならば、神様はアダムに対してこんなことはさせなかったはずです。なぜならこのとき、まだイブは生まれておらず、アダムは一人きりだったからです。情報伝達は伝える相手がいて初めて成立するものですから、この時点では情報伝達ツールとしての言語は成立できません。

ですから言語というのは情報伝達ツールである以前に、認識ツールであるということになります。言葉を粗末に扱うということは、相手を傷つけるだけでなく、自分の認識をも歪めてしまうということです。悪い言葉というのは誰かにぶつけなければいいだけではありません。自分が物事を認識するときにこそ、できるだけ丁寧な言葉で認識することが大切なのかと思います。

それではまた。

主にありて。

MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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