献立から食材を決めるのか、食材から献立を決めるのか【聖書からよもやま話547】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。

本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は  旧約聖書、詩篇の31篇です。よろしくどうぞ。

詩篇 31篇7節

あなたの恵みを私は楽しみ喜びます。

(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

恵みというのは外から与えられるものです。大地の恵みは大地から与えられるものですし、海の恵みは海から与えられるもの。神の恵みもまた、神様から与えられるものです。つまり「恵みを楽しむ」というのは、与えられたものを楽しむということです。

人はつい、与えられているものを軽視します。与えられるものよりも、自分の手で掴み取ったものを重視しますし、「あれがほしい、これもほしい」と常に何かを自分の手で掴み取ろうとしています。そして、それを掴み取れないと「自分は不幸だ、満たされない」なんて思ってしまいます。不幸の原因の一つは欲しがることです。欲しがるからそれが得られないときに不幸を感じるのであって、そもそも欲しがらずに与えられたもので満足することができれば不幸はやってきません。

人はつい「もっとお金があれば幸せになれる」とか「もっと広い家に住めれば幸せになれる」とか「もっと有名になれば幸せになれる」とか、「もっと〜〜なら」に幸せを求めてしまいますが、実はそこには幸せはなく、むしろ不幸を呼び込んでしまうことも多いんです。なぜならその「もっと」を手に入れることはとても難しいことですし、一つの「もっと」を手に入れたとしても、次の「もっと」が出てくるからです。

近頃は物価の高騰で日々の食卓に困る方も増えていますけれども、僕はスーパーに買い物に行く時、「これをが食べたいからこれを買おう」とは思わず、売り場で特売品を見つけて、それをどう食べるかを考えて献立を決めます。献立から食材を考えるのではなく、食材から献立を考えています。そうすると安くておいしい食事になるんです。特売品というのは一種の「与えられたもの」です。与えられたものから自分の幸せを組み立てる。この考え方が人生を豊かにする一つのコツかと思います。反対に、自分が食べたい献立から食材を選んでいたら、それは自分の人生プランに合わせて足りないものを一つ一つ手に入れていく人生に似ています。その人生には常に「まだ足りないもの」があり続けますし、それが不幸のもとになります。

もちろん、僕だって時には「これが食べたいからこれを買おう」と、献立から食材を選ぶこともあるのですけれど、それは「週に一度の贅沢」をしたいときだったりします。欲しいものを手に入れるのは「あたりまえ」ではなく「贅沢」なことなんです。

それではまた。

主にありて。

MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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