捏造・盗用などの研究不正を理由に東洋英和女学院の院長職を追われた深井智朗氏による新翻訳『キリスト教綱要 初版』が、講談社学術文庫から出版され波紋を広げている(本紙2月21日付、3月1日付で既報)。2018年、日本基督教学会の学会誌『日本の神学』57号(2018年版)で初めて公に深井氏の問題を指摘した小柳敦史氏(北海学園大学准教授)は、互盛央編集長の言い分と深井氏の「あとがき」をどう読んだのか。
『キリスト教綱要 初版』が波紋
「あとがき」に見る問題の核心とは?
――日本基督教学会での問題提起から、その後の動きについて教えてください。
小柳 学会の動きとしては、正直なところ何もありません。ドイツ現代史学会で研究不正について考えるというシンポジウムが開かれ、私も招いていただき、今後の研究を検証する姿勢や体制をどう作れるかについて議論しました。歴史学の研究者は、史料の取り扱いも含め非常に厳密で、問題意識が高いと思いました。他方、日本基督教学会や日本宗教学会では、同様の組織的な動きはありませんでした。そうした議論や検証をした方がいいのではないかという意見は聞きましたが、具体的に学会主催でシンポジウムを開くなどという話には至っていません。
――深井氏本人も含めて、当時からほとんど状況は変わっていないということですね。
小柳 はい。本人とのやり取りもありません。
――では、今回の講談社学術文庫からの出版も、広告などで初めて知ったというわけですね?
小柳 はい。
――2019年(東洋英和女学院長退任)の段階で、声を上げられた小柳さんに対してリアクションはあったのでしょうか?
小柳 私の問題意識に賛同してくださる声もたくさんいただきましたが、同時に「優秀な研究者を貶めた」とか「余計な指摘」「どうでもいい細かいことに時間を割くべきではない」とする反応もあったことは事実です。学会関係でも、もう少し検証し直した方がいいのではないかという提案に対しては、「もうあの話は終わったこと」という冷めた意見もありました。
――今回は東洋大学の松井健人氏が実名で公開質問と抗議をされました。むしろ専門領域ではない第三者からの指摘だったわけですが、なぜ身近な関係者から同様の声が上がらないのか不思議です。
小柳 当初、研究分野が近い何人かの人から、やはり薄々気がついていたとか、個人的に関心のある論文や書籍に関して、不正を確認した箇所があるといった連絡はいただいていました。それぞれ個別に出版社へ報告されたこともあるようですが、公にはされていません。私も含め、責任あるキリスト教思想史研究に近い関係者が指摘できていないというのは、恥ずべきことだと思います。もちろん、学会誌『日本の神学』に私の質問と深井氏の回答を掲載していただいたのはありがたかったと今でも感謝していますが、中途半端な幕引きだったと思いますし、その後すぐに検証などの動きにつなげられなかったことは、さまざまな事情があったにせよ、残念でなりません。
そうした検証が不十分だったからこそ、今回のような形で新たな翻訳が世に出たわけで、当時の学会の対応が正しかったのかという検証はなされるべきでしょう。私にも責任の一端があることは言うまでもありませんが。
専門家としての社会的な責任問われる
「学会の対応も検証されるべき」
――講談社学術文庫の『キリスト教綱要 初版』に記された「あとがき」を読んだ感想をお聞かせください。
小柳 松井氏の公開質問に対する互盛央編集長の回答で期待されたような中身は書かれていませんでした。ただ、あとがきの内容とは別に、互編集長の回答そのものに不十分な点があると思っています。というのも、大前提として古典的な価値を持つ文献であれば、複数の翻訳があるのは望ましいことだと思いますし、『キリスト教綱要』が古典的な価値のある文献だということは間違いありませんが、松井氏が質問した「その翻訳者として深井氏が適任だと判断した理由」については、まったく触れられていません。例えば、カルヴァンについての優れた研究実績があるという積極的な理由か、せめて他の研究者に断られて深井氏が引き受けてくれたという消極的な理由が述べられていればまだ納得できますが、互編集長が答えたのは、深井氏に翻訳を依頼してもいい理由についてだけでした。深井氏の執筆速度、翻訳スピードが速いということと文章にある種の巧みさがあることが深井氏に依頼した理由なのかもしれませんが、そうした特徴は深井氏の研究不正の内容と密接に関わっている点なわけで、その能力を評価し、新しい翻訳のチャンスを与えるというのは、それらの問題を軽視した結果と思わざるを得ません。
――深井氏をめぐっては教会内でも評価が分かれているようです。学会や研究者間でもそのような温度差があるのはなぜでしょう?
小柳 学会に何を求めるかの違いだと思います。学会には自身の研究を発表したり、それに必要な情報交換をしたりする場所という側面もありますが、一方で専門家集団としての社会的な責任や意義があると私は思っています。研究の中心的人物として著作を発表し評価されていた人物が当時書いていたもの、そして現在発表するものは、キリスト教の研究者だけでなく、キリスト教に関心を持つ他分野の研究者にも読まれますし、文庫や新書など一般向けの書物であればなおさら、世間一般に広く共有される情報になります。その質は高い方が望ましいはずです。そうした学問に関わる情報の質を、専門家として漏れなく検閲したいというわけではありませんが、保証する役割、責任を担うべきだとは思います。やはり、そういう問題意識を持って学会に所属しているかどうかの違いは大きいでしょう。自分の研究活動のことだけ考えれば、まさに「余計なこと」をしているとしか思われないかもしれません。しかし、人文学やキリスト教学といった学問に携わる身として、自身の研究が進めばそれでいいという姿勢でいいのかは疑問です。論文として専門家に向けて発信するというだけでなく、研究成果の発信先として社会全体を視野に入れるのであれば、当然そこに対する責任も考えなければいけないと思います。
*全文は3月11日付の紙面で。
*問題の背景について順を追って解説した動画をYouTubeで公開中。