主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、詩篇の138篇です。よろしくどうぞ。
詩篇 138篇6節
まことに主は高くあられますが
低い者を顧みてくださいます。
しかし高ぶる者を遠くから見抜かれます。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
神様は他のどんな存在よりも偉い立場でありながら、立場の低い者を顧み、寄り添ってくれます。先代の天皇陛下、今の上皇陛下が東日本大震災の被災地に行かれたとき、避難所の被災者の方々に対して膝をついて同じ視線で話を聞いていた映像が海外に流されると、「これが国王や指導者のあるべき姿だ」と多くの賞賛を受けました。他の国の王様は被災地を訪れても高い姿勢を崩さないことが多いからだそうです。最も地位の高い人が、弱った庶民に対して膝をついて目を合わせて話す。神様もまた同じことをしてくださっています。神であるのに人間の姿になって、つまり苦しんで生きる人間と同じ目線に立って寄りそってくれるわけです。
ところで、ここで「高ぶる者を遠くから見抜かれる」と書いてあるのは興味深いことです。単に「高ぶる者を見抜かれる」ではなく「遠くから見抜かれる」と書いてあります。偉そうにしている人って、自分が偉そうにしていることになかなか気づかないものです。そしてそれについて面と向かって「あなた偉そうだよ」と指摘してくれる人も少ない者です。偉そうな人はみんなに遠くから「あの人、偉そうだよね」と言われるんです。そしてその人の周りからはいつの間にか人がいなくなり、みんなが「遠くから」見るだけになります。「高ぶる」とは単に「偉そう」というだけではありませんが、とにかく尊大な態度や尊大な気持ちは自分では気づかぬままに大きくなって、周りの人を遠ざけるものです。そして何より、神様までもが近づいてくれずに、遠くから見ているだけになってしまいます。
「僕は偉そうにはしていないから大丈夫」と思っていても危ないかもしれません。「自分は謙虚です」と言っている人、思っている人こそ、実は内心では尊大だったりするものだからです。自分の中に誰もが大なり小なり必ず持っている尊大な心、高ぶる心。自分にもそれがあるのだということを自覚して、しっかり監視しておくことが必要なのかと思います。ただ言動だけを人に謙虚に見せても意味はありません。神様は見抜くんですから。そして人だって意外とわかっているものです。体裁だけ謙虚に整えても内心で尊大な人って。人が離れる神様が離れるその前に、「あぁ、ここに僕の尊大な心がいるんだな。見張っておかなきゃな」とチェックすることが必要かと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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