2024年12月31日午後、台湾のプロ野球リーグと野球協会は、国立台湾博物館にて「BEHIND THE CHAMPION:<優勝への道のり>特別展」の記者会見を開催し、頼清徳総統もこのイベントに出席した。記者会見の冒頭では、筆者が責任を務める「八角塔男声合唱団」が台湾を代表する2曲の野球歌を披露し、台湾がWBSC世界野球プレミア12で優勝したことを祝う特別展の幕を開けた。
八角塔男声合唱団は淡江中学の卒業生による団体であり、その団名は母校の象徴的な建築物「八角塔」に由来している。淡江中学の男声合唱の歴史は1925年の日本統治時代に遡り、台湾初の男声合唱団を創設した陳清忠は同志社大学の出身で、後に「台湾ラグビーと合唱の父」と呼ばれる存在となった。
陳清忠は、日本が台湾を統治していた1895年に生まれた。12歳の時に台湾北部の長老教会の創設者であるジョージ・レスリー・マッカイ宣教師(George Leslie Mackay、1844~1901年)が設立した「牛津学堂」(Oxford College)で学び、卒業後は日本の京都にある同志社中学に進学。その後、同志社大学英文科に進み、さらに学問を深めた。大学時代には男声合唱団に参加し、3年生(1919年)では同志社大学ラグビー部のキャプテンに選ばれ、チームを率いて幾多の勝利を収めた。1920年、同志社大学を卒業後、帰台した陳は1921年に淡水中学(現・淡江中学)の英語教師となり、学校内で台湾初のラグビー部と男声合唱団を組織した。この二つの伝統は現在も受け継がれている。
1926年6月28日、陳清忠は設立間もない淡水中学男声合唱団を率いて、排水量6千トン以上の郵船「因幡丸」に乗り込み、日本への15日間以上にわたる訪問旅行を開始した。7月1日には福岡県門司市(現・北九州市門司区)で半日滞在し、午後に再び出航。7月2日の朝、神戸に到着し、午後3時半には京都に到着。「内地」での9日間の巡演が始まった。短い期間ながら、淡水中学男声合唱団は5回の演奏会を開催し、その中には陳清忠の母校である同志社中学での公演も含まれていた。
1926年7月3日午前8時、陳は淡水中学合唱団を同志社公会堂で指揮し、演奏の前に校長や教員に対し、淡水中学と同志社中学の「特別な親密な関係」について説明した。両校が改革派の精神を共有している点、淡水中学の多くの教員が同志社の卒業生である点、両校の校歌の旋律が同じである点などが挙げられた。滞在中、合唱団は演奏活動だけでなく、大阪朝日新聞社を訪問し、ラジオ放送を通じて日本全土に台湾の歌声を届けた。また、奈良で大仏を見学し、鹿と交流するなど、観光も楽しんだ。7月15日午前8時、合唱団は基隆港に無事帰港し、台湾初の海外遠征を終えた。
1960年4月6日、陳清忠は享年65歳で天に召された。彼が創設したラグビー部と男声合唱団は現在も活躍している。2005年3月に創設された八角塔男声合唱団は今日、台湾トップ3に入る男声合唱団に成長し、2024年7月には宝塚国際室内合唱コンクールで同声部門の銀賞を獲得した。将来、同志社大学を訪れる機会があることを願ってやまない。そして、過去の歴史に敬意を表するとともに、日台友好の最良の実践となることを祈っている。
(原文:中国語、翻訳=松谷曄介)
てい・ぼくぐん 1981年台湾台北市生まれ。台湾中国文化大学史学研究所で博士号取得。専門分野は、台湾史、台湾キリスト教史。現在、八角塔男声合唱団責任者、淡江大学歴史学部と輔仁大学医学部助教、台湾基督長老教会・聖望教会長老、李登輝基金会執行役員、台湾教授協会秘書長。