平穏な日々で聖書に向き合えない 山中正雄 【教会では聞けない?ぶっちゃけQ&A】

Q.最近聖書を読んだり、祈ったりすることがなかなかできなくなりました。特に悩みがあるわけではなく、淡々とした日々を送っています。悩みがあった頃は、聖書からたくさんの励ましや知恵をいただきましたが……。どうすればよいでしょうか?(20代・女性)

悩みがある時は熱心に聖書を読み、神に祈る。しかし平穏な日々を回復すると、情熱がさめてしまう。そうした心の変化は、決して珍しいことではありません。それは長い信仰生活において、誰もがたどるプロセスといえるのではないでしょうか。

山中の泉から湧き出した水は渓谷を流れ下り、その激しさは岩を砕きます。同じく神と共にある喜びは、どんな外圧も跳ね返す強靱な力をもっています。苦難の時ほど、その不思議さを実感するに違いありません。

それでも、やがて深刻な悩みが消失していき、神に必死にしがみついていた肩の力をゆるめる時がきます。神への信頼のあり方が少しずつ変化し、足が地に着き、信仰生活が日常化・習慣化していくわけです。それは、大地を滔々(とうとう)と流れる河に似ているでしょう。

その際に、落とし穴に注意しなければなりません。慣れは時に甘え、「なれなれしさ」を助長し、神の恵みや赦しが当然のように考えてしまうこともあるからです。

旧約聖書に記されたイスラエルの歴史が、その過ちを率直に伝えています。40年にわたる荒野の生活は苦難の連続でした。しかし、その旅こそ神とイスラエルのすばらしいハネムーンでした(エレミヤ書2章2節)。

「困った時の神頼み」はご利益信仰を批判した言葉です。しかし平穏な日の「淡々とした」歩みの上に、試練の嵐が吹きすさぶ時の真実な「神頼み」が成り立ちます。幼子のように神の御前に「へりくだる」信仰が危機の時も、平穏な時も私たちを活かし続けます。そうした確かな信仰が与えられますように。

*本稿は既刊シリーズには未収録のQ&Aです。

やまなか・まさお 精神科医、日本アライアンス教団千葉キリスト教会牧師。 1951 年高知県生まれ。高知高専、広島大学医学部、日本アライアンス神学校卒。日本アライアンス教団関東教区長。マザーズ・カウンセリング・セン ター(MCC)運営委員長。著書に『こころの診療室』(日本キリスト教団出版局)、『うつ病とそのケア』(キリスト新聞社)など。

【既刊】『教会では聞けない 「21世紀」信仰問答Ⅲ ―迷えるココロ編』 上林順一郎監修

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