ある年の研修でドイツへ行った際、ウクライナで支援活動をしている牧師の話を聞いた。教会どころか家も職場も爆弾や火災で失った人々、しかし日曜日だけは何とか礼拝をしようとして集まっているというのだ。
イスラエルとパレスチナでも大きな争いが起こっている。彼らもまた家や家族を失い、それでも礼拝の場所と時間だけは死守し、平和を祈っている姿がニュースで流れてくる。
一体「平和」とは何なのかと考えることが増えた。争いの理由については、複雑な利権問題や社会構造、宗教的不一致など、問題は挙げ出せばキリがない。しかし「平和」そのもののイメージは国でも宗教でもそんなに変わらないと思う。青い空の下、一緒に遊んでご飯を食べ、誰しもが笑顔で過ごしている。見たい景色はシンプルなのに、そこに行き着くまでが何とも難しい。
例えばミサイルや戦車はある意味、最終局面で用いられるものだと思う。身近なところに目をやると、例えばクリスチャン同士であっても誰かをけなしたり、揉めごとが起こったりする光景は日常茶飯事である。この延長線上に武器や兵器が登場するのではないだろうか。
みんな「平和」という言葉は好きだが、実際それがどのように成し遂げられていくのかについては想像すらできていない。それが世界の現状ではないか。僕自身もそうで、ある聖書の言葉があまりしっくり来ていないのだ。
「一人のみどりごが私たちのために生まれた。/一人の男の子が私たちに与えられた。/主権がその肩にあり、その名は/『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と呼ばれる」(イザヤ書9章5節)
これはキリストの誕生の預言と言われている。「その名は……」から続く最初の三つは何となくイメージができる。しかし「平和の君」だけがどうも理解に困ってしまう。神よ、この世界は争いだらけで、僕自身も今日また誰かを憎み恨み、もう平和なんて綺麗事ではないか。そう祈りたくなる。でもある日、1人の5歳児がそんな言い訳を目の前でぶち壊してきたのだった。
幼稚園へクリスマスメッセージをしに行った時のこと。この日は、キリストが生まれた日の物語を話した。
「実はイエス様って病院で生まれてないんだよ」――園児たちは「おうちー?」と尋ねる。僕は「いや家もなかったんだ。宿も断られて、実は馬小屋で生まれたんだ」――「やべぇ! めっちゃ汚いでしょ!?」
彼らの何とも新鮮な反応に感動しつつ、「そうだよ! キリストはすごく汚いところで生まれた。でもお腹から出てきた瞬間、みんなから〝おめでとう〟〝ありがとう〟と言われたんだ!」「どんな場所で、どんな環境で生まれても関係ない。今日ここに生きている僕たちにも神様はおめでとう、ありがとうと言っているよ」「家に帰ったらお母さんにありがとうって言おー」「その前に先生に言わなきゃだよ!」――みんな素直に受け止め、それぞれの家やお友だちの間で「ありがとう」と「おめでとう」を言い合うキャンペーンをしようと話し合った。
我ながら聖書の言葉は届いたのかなと実感しつつ、最後のお祈りをしようとみんなで目をつむる。しかしその瞬間、1人の園児が突然叫んだ。
「そんなのおかしいよ!」
みんなびっくりして、その子をとっさに見つめた。僕も何が起こったのかと目を開け、尋ねた。
「どうした? なにがおかしいの?」
すると彼はグッと拳を握りながらこう言った。
「イエス様はそんなとこで生まれちゃダメなんだ!」
予想外すぎる返答だった。「馬小屋で生まれちゃならない」なんて言葉、聞いたことも想像したこともなかった。
僕は聞き返した。「じゃあ、どこで生まれたらよかったと思う?」
すると彼はこう言った。「次にイエス様が生まれてきたら、僕がおうちに入れてあげるよ!」。
なんて答えなんだ。僕は膝から崩れ落ちそうになった。キリストが困っているなら自分が迎え入れてあげるんだなんて、おそらく一生をかけても僕には出てこない言葉だろう。そんな時、ボンヘッファーのある年のクリスマス説教とシンクロした。
「平和の君」――もしあなたの兄弟との間に、争いや憎しみがあるなら、神がどんなに大きな愛からわれわれの兄弟になったか、そして神がわれわれとどんなに和解しようとしているかを、来て、実際に見なさい。
2000年前のあの日、「誰が」とか「どんな理由が」なんてキリストにとっては小さなつまずきにもならなかった。今、目の前で食事に困っている人がいるならば、いくらだってパンを分け与える。友だちのいない人がいれば一緒に飯を食おうと家にまで押しかける。病で苦しむ人がいるならば徹底的に癒やし続けた。
これこそ本当の「平和」なのかもしれない。それはイエスのように食物を増やして、水の上を歩いてという意味ではなく、「僕が/私がおうちに入れてあげるよ!」のひと言、今日も誰かと一緒にご飯を食べ、何となく世間話をして、少し祈ってみることじゃないだろうか。
「誰が」とか「どんな理由が」なんてクリスマスにはちょっと無粋だ。今日「キリストが私のためになりたもうように、私もまた隣人のために一人のキリストとなろう」(マルティン・ルター)とすることが平和の一歩なのかもしれない。
キリストは山上の説教で「平和をつくる人は幸いです」と言った。平和は勝手に訪れるものでもなければ、誰かが叶えてくれるものでもない。今を生きる僕たちにその使命が託されている。そして愛は分け合うからこそ広がるし、平和はつくるからこそ実現する。僕はこの日、キリストが世界にやってきた意味を幼稚園児から教えてもらった。
園児のひと言に面食らいながら、「キリストはもう天国にいるから、今度キリストみたいに困っている人がいたら君が助けてやってくれ!」と叫び返した。すると彼は「まかせてよ!」と笑顔でグータッチをしてくれた。
キリストは「平和の君」として、この世界に誕生した。それを僕たちはただお祝いするだけで終わっちゃダメだ。僕たちもまた「平和の君」として生きるために、飼い葉桶に眠るひとりのみどりごを見つめよう。その時にこそ、クリスマスの良き知らせは世界中に響き渡るのかもしれない。
引用:D・ボンヘッファー、浅見一羊・大崎節郎・佐藤司郎・生原 優他訳『ボンヘッファー説教全集3』(新教出版社、2004年)
ふくしま・しんたろう 牧師を志す伝道師。大阪生まれ。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝などの運営に携わる。同志社大学神学部で学んだ弟とともに、教団・教派の垣根を超えたエキュメニカル運動と社会で生きづらさを覚える人たちへの支援について日夜議論している。将来の夢は学童期の子どもたちへの支援と、ドイツの教会での牧師。趣味はヴァイオリン演奏とアイドル(つばきファクトリー)の応援。