祈るわたしたちは、神学者がそばにいてくれないと困るのである。というのも、わたしたちの祈りがしばしば「自分を支えること」や「よい友人を得ること」を求めるものだが、「わたしたちの利益を最大化するように見える悪魔の囁き」であったりするからだ。わたしたちは神のことよりも自分自身のことを考えてしまう。わたしたちは「自分の内側に起こること・起こらないこと」で頭が一杯になる。わたしたちは自分たちの感情と意志の巨大な不一致に戸惑う。わたしたちの内側には道徳的な告発が聞こえ、不安になってしまう。祈っている只中で「自分に価値があるのか」という疑問を抱くことがある。それで「霊的なエリートとなって、特権を享受できる」との秘密めいた宣伝文句があると、簡単にわたしたちは、そうしたことに魅了されてしまう。
しかし、本来、祈りは神に関わることで、自分に関わることではない。祈りは確かにわたしたちを巻き込んでいく。 ―― わたしたちの全てを、その細部に至る全てを祈りは巻き込んでいく。それでも、神こそが、祈りにおける最優先事項なのである。神学者の役割は、わたしたちが「自分自身から始めるのではなく、神から始める」という思考力・想像力・理解力を身に着けるよう訓練させる。神学者の努力がいつも功を奏するとは限らない。というのも、わたしたちは自分自身に注視してくれる人を持ちたいからだ。そうであっても、神に注視することがもっと重要なことである。神だけに注視することから始める祈りは、神に幾度も注視する単純さを回復することを可能にしてくれる。祈りとは誰もが行うこと、最も個人的なもの、最も人間的なことなのだ。祈りの中で、わたしたちは「人間」とつながって行く。他のどんなことをしている時よりも、祈っている時に、わたしたちは「自分らしさ・自分の真実の姿・神の像」を体現する。これが祈りの醍醐味である。そして同時に、ここに祈りの問題もある。というのも、わたしたちが神以上に自分自身に興味を持つからだ。
イエスは言われた。「この世界には『祈りに無関心な祈りの勇者たち』とでもいうべき人々がいっぱいいる。その人々は色々な「マニュアル」や「プログラム」あるいは「提言」をいっぱい持ってきて、ある種の技術を売り歩いている。そこで販売されているのはつまり神から欲しいものを獲得する技術なのだ。そのような馬鹿げたことに騙されてはいけない。向き合っているのは、あなたの天の父なのだ。あなたの天の父は何を必要としているかを、あなたがた以上にご存じなのだ。
―― マタイによる福音書6章7~8節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。