20世紀前半、世界政治の一つの変化として全体主義の興隆が見られた。この政治思想と国家制度は、二つの形態を体現している。一つは、無神論と共産主義思想を指導原理とする社会主義国家であり、例としてソ連、東欧のポーランド、チェコスロバキアなど、そして中国、北朝鮮、ベトナムが挙げられる。もう一つは、軍国主義と独裁主義を特徴とするファシズム国家であり、例としてドイツ、イタリア、日本がある。全体主義国家はキリスト教に対し似た政策を取り、キリスト教を統制・改造し、さらには極端な場合にはキリスト教を消滅させることにまで及んだ。啓蒙主義以来の欧米における世俗化に比べて、全体主義国家のキリスト教に対する統制・改造・消滅は学界において「強制的世俗化」と呼ばれている。
1945年から49年にかけて中国では内戦が続き、アメリカが支持する国民党政府は最終的に台湾へと撤退し、共産党が新たな政権を樹立してソ連を中心とする社会主義陣営に加わった。49年に中華人民共和国が建国されてから78年の改革開放までの間に、中国は徐々に全体主義国家へと変貌していった。この国家の特徴は、国家権力が一人の指導者、一つの政党によって独占され、国家権力が政治・経済・文化・社会のすべての領域に浸透し、さらには個人の結婚や家庭にまで影響を及ぼす点である。全体主義政治が最高潮に達した時期には、一般市民の愛や結婚は個人の事柄ではなく国家の問題となり、個人はまず党に対して心を向け、党と国家に忠誠を尽くすことが求められた。全体主義体制の確立過程は、国家権力が市民社会に浸透し、それを改造・消滅させる過程でもあり、その市民社会の一部を構成する中国教会は、欧米諸国との密接な関係から、国家による統制と改造の対象となった。1966年に始まった文化大革命では、国家はついに宗教、特にキリスト教を消滅させる政策を展開するに至った。具体的には、いくつかの政治運動が中国教会の発展に影響を与え、その様相を形作ったのである。
第一に、1950年代初頭における土地改革運動、反革命運動の弾圧、朝鮮戦争への対応である。国家は中国の農村部で土地改革運動を推進し、その結果、多くの農村教会が一時的または永久的に閉鎖に追い込まれた。また、教会が大量の土地を所有していた場合、政府によって搾取階級として分類された。例えば、51年には内モンゴルのある村では、「耶穌家庭」(訳注:中国土着の教派)が数百畝(ムー)の土地を地方政府に没収され、教会の指導者は街頭で批判され、信徒たちも思想改造を受け、さらに副代表の潘懿清(ハン・イセイ、1900~51年)は銃殺された。
1807年のプロテスタントの伝道開始以来、中国教会は欧米の宣教団体および宣教師との緊密な関係を持っていたため、反革命運動の弾圧の中で粛清の対象とされた。新疆で1949年に設立された中国の土着宣教組織である「基督教西北霊工団」は反革命組織と見なされ、霊工団のメンバーは大きな迫害と苦難に直面した。1950年から52年の間に、十数名の霊工団のメンバーが政府に逮捕され、判刑を受けた。その中の一人である趙西門(チョウ・シモン、1918~2001年)は、満洲国で「瀋陽日報」の記者を務めていたため、この経歴から「漢奸(売国奴)特務」の罪で20年の刑を言い渡された。また、霊工団の団長である張谷泉(チョウ・コクセン)牧師(1919~56年)は、ウルムチの監獄で殉教した。
第二に、1950年に勃発した朝鮮戦争により、中国とアメリカの対立が激化し、全国的に反帝国主義運動が展開された。その中で、党と国家の支持を受けた自由主義神学陣営の代表者である呉耀宗(ゴ・ヨウソウ)らは、中国キリスト教内において「三自愛国(革新)運動」を始め、国家の政治的要求に呼応した。1954年に三自愛国運動委員会(以下、三自愛国会)が設立され、これは三自愛国運動が政治運動として半官的な政治組織へと変わることを象徴していた。国家権力の支持と黙認の下で、同委員会は「愛国、反帝」の赤い旗を掲げ、中国教会内の福音派に対する取り込みや弾圧、さらに他の教派の教会の統合・吸収を続け、次第に教会運営の実権を握るようになった。
第三に、1955年から57年にかけての反革命運動の粛清である。国家権力とその代理人である三自愛国会は、中国教会内の福音派に対して懐柔と闘争の両方の戦略を採用したが、懐柔政策が失敗に終わり、新たな政治運動が始まると、当局は福音派に対して闘争と弾圧の政策を強化した。1955年には、福音派を代表する「北京基督徒会堂」と「聚会処(しゅうかいしょ)」を代表とする福音派が、国家によって「反革命集団」と定義された。北京基督徒会堂の王明道は中国土着の教会の伝道者であり、彼の教会の信徒数は数百人にすぎなかったが、彼は中国教会の中で非常に影響力のある指導者であった。1955年に王明道(オウ・メイドウ)が発表した「我々は信仰のために」という文章は、中国の福音派が真の信仰と教えを守り、共産主義下での政教関係を再定義する試みであったが、その後、政府による王明道への弾圧は、中国教会全体に対して威嚇的な効果をもたらした。また、倪柝声(ゲイ・タイクセイ、ウォッチマン・ニー)を代表とする聚会処は中国教会内で最大の教派であり、信徒数は7万人に達していた。政府は聚会処を「倪柝声反革命集団」として有罪とし、取り締まりと弾圧を行い、これにより中国教会の福音派は大きな打撃を受けた。反革命運動の粛清がもたらした客観的な結果の一つは、政治が第一、教会は二の次とする三自愛国会の自由主義神学とは異なるモデルとして、「家庭教会」の成立を促進させたことである。
第四に、1958年に経済推進としてなされた「大躍進運動」である。この運動において、中国教会が有していたそれぞれの教派の特色は、三自愛国会によって「帝国主義の半植民地的残滓(ざんし)」とみなされたため、教会革新の継続がこの時期のテーマとなった。浙江省の教会から始まり、全国の教会に広がり、三自愛国会は教会の「合同礼拝」を推進し、多くの各個教会を廃止し、合併させた。例えば1958年以前に北京には72の教会があったが、合併後にはわずか四つの教会しか残らなかった。上海には200以上の教会が存在していたが、合併後には二十数か所にまで減少した。教会の80%が政府や工場によって占有された。このように合同礼拝は、各個教会の大幅な減少と教派的特色の排除などに大きな影響を及ぼし、それ以後、中国教会は「ポスト教派の時代」へと移行したと言える。さらに合同礼拝によって公的な教会が大量に消失したため、家庭教会のさらなる発展を促進することとなった。
第五に、1966年から76年にかけての文化大革命である。文化大革命の時期に全体主義政治は頂点に達し、極度な独裁と国家権力の濫用は、国民全体に大きな災禍をもたらし、政治的混乱、経済停滞、伝統文化の大破壊を引き起こした。国家は戦闘的無神論を奉じ、宗教の消滅、特にキリスト教の消滅を目指した。三自愛国会の教会もすべて閉鎖され、聖書や信仰書が焼かれ、さらに三自愛国会および非三自愛国会を問わず伝道者は教会を去ることを余儀なくされ、批判や有罪判決を受けた。さらに、一般信徒も宗教的信仰のために「黒五類」(地主、富農、反革命分子、破壊分子、右派)の一部として見なされた。中国におけるこの社会的身分の規定は、インドのカースト制度と南アフリカのアパルトヘイトの結合のようなものであり、国家権力が中国社会をいくつかの深刻な不平等階級に強制的に区分けし、「黒五類」とされた者たちは政治的・経済的権利を剥奪された。文化大革命は中国教会に大きな影響を与え、公の教会と信仰生活が完全に消失した一方で、秘密裏の地下集会が活発化し、家庭教会のさらなる発展を促進した。
以上のように、1949年から78年にかけて、中国共産党は全体主義政治を徐々に確立し、教会を絶え間なく統制・改造し、さらには宗教(特にキリスト教)の消滅を目指した。このような政治と政策は、教会に多大な損害と苦難をもたらし、中国教会の様相と発展の軌跡を大きく変えることとなった。では、こうした30年にわたる「死の陰の谷」の中で、中国教会はどのようにして生き延び、また復興していったのだろうか。この問題については、次回で論じることとする。
(原文:中国語、翻訳=松谷曄介)
袁浩
ユエン・ハオ 1980年生まれ、中国山東省出身。北京大学で修士号、香港中文大学で博士号(Ph.D.)を取得。現在、カナダ・バンクーバーのバプテスト福音教会の伝道師、トリニティ・ウエスタン大学に設けられているACTS(Associated Canadian Theological Schools)の中国語部の客員教授。専門は中国キリスト教史。