Q.ことあるごとに、「牧師夫人なんだから……」とたしなめられてしまいます。(30代・女性)
「民主主義国においては、牧師夫人のあり方も民意を問うべきです。教会員の半数以上が問題とするのなら、改めるべきです」と、数の原理で考えるなら、2、3人の意見は気にする必要はないと言われそうですが、一人の意見でも「牧師夫人」への厳しい言葉は、心に重く残ることでしょう。言う側は、親心からの苦言もあれば、世代間の違いによるズレ、さらには、理想とする牧師夫人像による期待(押し付け)もあると思われます。
私自身、以前日曜日に、早朝礼拝に出席してから子どもの運動会に参加したことがありました。後から、「牧師夫人が……」との声があったことを知り、動揺しました。日曜の運動会参加と礼拝は、複雑な問題も絡み、私も迷い、悩み、早朝礼拝を選択したのです。
数日後、言われた方の信仰の歴史や価値観に耳を傾けるチャンスが与えられ、どのような状況での言葉なのかを聞いた時に、彼女の苦悩と闘いを私の行動への言葉に置き換えられたことを知りました。勇気を持って、辛口の方々の真意をも聞いてみたいと思います。私たちの直すべきところ、また、その方の心の叫びも聞こえるかもしれません。
ただ、理想像は尊重されるべきですが、理想像から来る期待に応えるかどうかはよく考えたいと思います。
さて、もしもこの苦言が一番身近な夫から発せられるなら、民主主義の原則は崩れます。妻にとって、夫の一言は99%の教会員の言葉よりも影響力を持つのです。「たった一人でも理解してくれる人がいたら生きていける」との言葉がありますが、その一人を失ったように思えます。夫が自らの牧師夫人像を妻に期待し押し付けようとしているなら、吟味すべきは、夫人ではなく、牧師の方でしょう。もしかしたら、牧師は自分自身をも、こうあるべきとの律法で、または現実遊離した理想で縛り上げているかもしれません。
にしおか・まりこ 東京聖書学院、タルボット神学校(結婚・家族ミニストリーの修士)卒業。日本ホーリネス教団川越のぞみ教会で夫と共に牧会。結婚カウンセリング 「プリペアー/エンリッチ」の日本推進委員。ファミリー・フォーラム・ジャ パン評議員、臨床牧会研究会・結婚カウンセリング部門担当委員、3人娘の母。