争いは始めるよりも、終わる方に勇気が必要【聖書からよもやま話497】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、サムエル記第二の2章です。よろしくどうぞ。

 

サムエル記第二 2章26節

アブネルはヨアブに呼びかけて言った。「いつまでも剣が人を食い尽くしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。いつになったら、兵たちに、自分の兄弟たちを追うのをやめて帰れ、と命じるつもりか。」

(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

ダビデは前王サウルと戦っていましたが、サウルの戦死によって、その戦いは一応の決着をみました。そのはずでした。しかしダビデの部下も、サウルの部下も戦いをやめませんでした。むしろ戦いは激化したほどで、双方に多数の死傷者が出ました。戦いというのは一旦始まってしまうと当初の目的を忘れてエスカレートするものです。それはもう単にダビデとサウルの戦いではなく、その部下の将軍や兵士たちの恨みの晴らしあい、メンツの守りあいにも、なってしまっていたのでした。

そこでサウルの将軍であったアブネルが、ダビデの将軍であったヨアブに言いました。「いつまでも殺し合っていてはいけない。ひどいことになってしまう。どうして君は兵たちに戦いをやめるように命じないのか」

それを聞いてヨアブは「よく言ってくれた。君がそれを言ってくれなかったらとことんまで戦いは終わらなかっただろう。神様もそれを望んでいるだろう」と言って、角笛を吹き、全軍に戦いをやめるように命じました。

現代の世界でもあちこちでひどい戦いが起こっていますけれど、このアブネルとヨアブのように早く和平が成立することを願います。もちろんそう簡単に行かないことはわかります。戦いって、戦争でも、もっと小さなただの喧嘩でも、始まってしまったら終わらせるのには大きな勇気と知恵が必要なものです。たぶん、戦いを始めるよりも終わる時のほうがより多くの勇気と知恵が必要なものなんでしょうね。

戦争になると話が大きすぎて複雑ですが、僕たち一人一人のレベルでのさまざまな争い、なんなら子どもの喧嘩であっても、争いを始める勇気よりも終わる勇気を、一人一人が持つことがまず平和への道なのかと思います。そもそも大切なのは「始めない勇気」なのかもしれません。多くの人が世間の人を「敵」と「味方」にわけて争いあっている時代だからこそ、強くそれを思います。大きな平和を望むならまず小さな平和を。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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