1948年の短編小説『くじ』で注目を集めたシャーリィ・ジャクスンは次作を1行も書けずにいた。外出どころかベッドから出ることさえままならない。業を煮やした夫で大学教授のスタンリーは、助手として着任したばかりのフレッドとその妻ローズを自宅に居候させる。こうして4人の共同生活が始まる。
『Shirley シャーリィ』はシャーリィ・ジャクスンが第2長編『絞首人』を執筆する過程を描く評伝映画。シャーリィの心象風景を挿入し、現実と虚構の境いを曖昧にする映像は、彼女の小説と似て幻想的だ。例えばただ子どもたちが走り過ぎるだけのシーンなのに、何かこの世のものでない存在を垣間見た気にさせられる。
共同生活を送る4人の関係は徐々に変化していく。同居人を毛嫌いするシャーリィに他の3人が困惑する形で始まるが、スタンリーとフレッドの対立が表面化したり、それぞれの夫婦間で確執が起こったり、シャーリィとローズの間に奇妙な連帯が芽生えたり。特にシャーリィとスタンリーの夫婦関係は愛憎入り混じった共依存的な面があり、危うそうに見えつつ堅固にも見え、一筋縄では読み解けない。
4人の秘密の共有にもグラデーションがある。ローズだけ除け者にされた秘密もあれば、シャーリィとローズだけが共有する秘密もある。脚本家が指摘する通り、本作の展開には『バージニア・ウルフなんかこわくない』の影響が見て取れる。
シャーリィの少なくない作品で繰り返されるのが、「他人になりすます」行為だ。家主が隣人になりすましたり、訪問者が家主になりすましたり、自分の行動を架空の人物のそれに転化したりする。本作にも似たようななりすましがある。『絞首人』のモチーフになった、失踪した大学生ポーラの行動をローズがなぞるシーンだ(シャーリィのイメージの中でも、ポーラは時折ローズの顔をしている)。他にもシャーリィ自身、魔女を自称して自由奔放に振る舞う姿を見せつつ、一方でスタンリーに執筆を迫られて逆らえない、被虐待者のような無力感も見せる。彼女は本当に、本作製作陣が評するような魔女なのだろうか。あるいは自作でも繰り返しているように、魔女になりすましているだけなのだろうか。
本作はローズの解放の物語でもある。妊娠したローズは学業からもキャリアからも締め出され、意に反して家庭に閉じ込められてしまう。シャーリィはそんなローズに(意図してかどうかはさておき)気づきを与える。後半、シャーリィがローズの口の中にキノコを置くのはその象徴ではないだろうか(同性愛的な表象でもある)。終盤、妻の変化に気づいたフレッドが口にする台詞は、ローズにとってもはや家父長制の呪いでしかなかっただろう。
しかし魔女を自称するシャーリィでさえ、実のところ家父長制と男性中心社会の呪いから逃れられなかった。なぜなら作家として、生前には必ずしも正当に評価されたと言えないからだ。現在は「シャーリィ・ジャクスン賞」が創設され、生誕100年が記念されるほど評価されているが、それでもなお「あのスティーブン・キングに影響を与えた」という宣伝文句からは逃れられない。そこには男性に認められてやっと土俵に立てるという、男尊女卑の価値観が内在しているように見える。
この映画はシャーリィとローズの2人を主人公にしているが、その2人が浮かび上がらせようとしたのは、実のところポーラではなかったか。ポーラは失踪してなお注目されない、見えない存在とされた女性の1人だ。冒頭、ポーラの顔がぼやけて見えないのは、それがシャーリィの顔でもあり、ローズの顔でもあり得たからだろう。シャーリィは言う。「この世界は女の子には残酷すぎる」と。そんな世界への抵抗の試みとして、彼女は『絞首人』を書き、魔女を自称したのではなかったか。
本作が提示する相反する二つの結末は、そんな女性たちの葛藤と選択を表しているのかもしれない。こんな世界に早々に見切りを付けるのか、あるいはあくまで戦い続けるのか、と。冒頭と結末に列車の警笛が聞こえる。結末に列車に乗っている人物はいないのに、なぜ聞こえてくるのだろう。この作品がすべて誰かの夢想だったという解釈はあり得るだろうか。あるいはこの作品自体が、こんな世界からの一時的な逃避、あるいはささやかな抵抗の試みであるという解釈は。
(ライター 河島文成)
7月5日(金)よりTOHOシネマズ シャンテほか全国ロードショー