……それで、ヨナは祈った。ヨナの祈り「そのもの」が特別なものではない。わたしたちが祈るのは、普通は絶望状態の時である。ただ、ヨナが祈った「方法」が特別なものであった。ヨナは「所定の祈り」を祈ったのだ。ヨナが行った祈りは自然に出てきたヨナ独自の祈りではなかった。ヨナの祈りは完全に模倣した祈りだ。ヨナは長い間に学校で祈ることを学んできたのだ。ヨナは教えられたように祈ったのだ。詩編がヨナの学校であったのだ。……【ヨナ書2章3節:詩編120編、4節:詩編96編2節、7節:詩編30編、8節:詩編142編4節】
わたしたちが生ける神に応じて自分自身の全てや色々な偽りのない状況を祈りたい時は、自分自身の感情を表すことだけでは不十分である。祈るためには「予備校」で学ぶ長い期間が必要である。さらに、大学院が不可欠なのだ。その学校が詩編である。ヨナの祈りを見ると、ヨナが詩編という「学校」で実によく学んだかが分かる。ヨナの祈りは苦境に遭って蹴り出されるように始めた。だが、ヨナの祈りは苦しみの中に引きこもるものではなかった。ヨナは苦しみを直接体験したのだが、ヨナの祈りは経験を遥かに超える世界へと導かれたのである。ヨナは自分が関わっている神の大きさに相応しい祈りを行うことが出来たのだ。
イエスは言われた。「わたしを信頼する者は、わたしが今していることを行うばかりでなく、さらに大いなることを行う。なぜなら、今は、父の御元に行く途上にあるわたしが、わたしはあなたがたにわたしが行ってきた同じ業を与える。その言葉を信頼しなさい。今から後、わたしが誰であって、わたしが行ってきたことを思い出し、それに従い祈り求めるなら何であっても、わたしは叶えてあげよう。
―― ヨハネによる福音書14章12B~14節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。