2024年2月22日に愛知県稲沢市の尾張大国霊(おおくにたま)神社で行われた、通称「国府宮はだか祭」に、初めて女性団体が公式に参加した。同祭は1300年近い歴史を持つとされており、下帯姿の裸男(はだかおとこ)たちが激しくぶつかり合う「もみ合い」が有名で、奇祭としても知られている。今回女性団体が参加したのは、「もみ合い」前に行われる行事で、願いが書かれた布にくるまれた笹を担いで拝殿に奉納する「儺追(なおい)笹奉納」と呼ばれる神事。女性たちは法被姿で臨んだ。
この出来事について、地域住民やメディアの間では、「男女平等の時代」「時代の流れ」を考慮したものだとする好意的な反応が見られた。確かに女性の社会的権利が認められるようになった現代的な変化を背景に、近年まで女性の参入が促されてこなかった伝統的行事にもその流れが到来したという点で、まさに「時代」が反映された出来事と言えるだろう。一方、女性の祭りの参加を「時代だから」というひと言で説明してしまうのはいくつかの側面を見落としてしまう。
第一に、今回の女性団体の参加にあたって、運営側や参加者の間では祭りの歴史や意義を再確認する過程があったことである。神社側はこれまで女性の奉納を禁じてきたわけではないが、長年の慣習で原則着衣での参加が許されていなかった関係で、参加者を男性のみに絞っていた。しかしコロナ禍においては感染対策のために着衣の参加が認められ、それであれば着衣の女性も許されるべきではないかという女性からの申し出があったことで、神社側は男女平等を重視する時代の流れを汲み、今回の女性団体参加決定に至ったという。つまり、「女性を禁じてきたわけではなく、着衣を禁じてきた」という宗教的な論理を再確認する過程も、今回の女性参加の決定に大きく影響している。
第二に、これまでの女性の不参加は「時代だから許容されてきた」わけではないという視点である。祭りに限った話ではないが、女性が社会的・文化的な場に参加することが許されてこなかったという問題は、構造的なジェンダー不平等を再生産し続けてきた歴史と当然切り離すことはできない。「時代」だからという見方は、これまでのさまざまな場における女性の不参加があたかも公に許されていたかのように錯覚させる。さらに言えば、「時代」だから男女平等は達成されて当然であるという形式的な視点は、現代においてもなお横たわるさまざまなジェンダー不平等にまつわる問題を不可視化するリスクもある。
現在、全国各地で、人口減少による祭りの担い手不足が大きな課題となっている。祭りを存続させるために、これまで参加が認められてこなかった人々を担い手として取り込もうとする動きは今後も大きくなるはずだ。当然、女性を含め社会的にマイノリティと位置付けられる人々の参加を認めていくという試みは今日的かもしれないが、その行いをジェンダー平等/多様性の「時代だから」というマジックワードで容易に評価するのではなく、祭りの歴史や意義に加えて、彼女ら/彼らの参加がなぜこれまで認められてこなかったのかについての議論が、参加者らの間でどのように行われていくのかを注視していきたい。
牧田小有玲
まきた・こうれ 1994年静岡県生まれ。慶應義塾大学院社会学研究科博士課程在籍中。論文に「神社神道で構築されるジェンダー規範についての一考察 ―女性神職に関する言説分析から」(『宗教学論集』)がある。