奇妙に聞こえるかもしれないが、次のことは本当である。つまり「行き過ぎた宗教観は悪いことだ」ということである。わたしたちは過度に神と関わることは出来ない。過度に信じ、服従することも出来ない。過度に愛し、礼拝することも出来ない。ただ、「宗教」は ―― 「神のために全てを傾けるのだ」という善意から湧き上がるわたしたちの努力は ―― 実にしばしば「神がわたしたちのために行うこと」が邪魔になり得る。神の御業(みわざ)の主要で中心的な部分は、どこでも、また何時もわたしたちのために展開する。これからも展開して行くのである。「わたしたちのための神の御業」はイエスにおいて啓示されている。「イエスの内に啓示された神の業に応答する」という服従の人生こそ、わたしたちの中心的課題である。この御業におけるわたしたちの役割は、信仰という行為である。
しかし、多くの場合、わたしたちは途中でしびれを切らして尊大になり、手元の貧弱でしかない道具で問題を改善することを決める。そして努力を続け、付け足し、補足し、潤色(じゅんしょく)する。ただ、イエスが体現した純粋さと単純さを突き詰めて行くのではなく、その純粋さを薄め、単純なものを乱雑にしてしまう。あくせくした宗教、不安げな宗教がそこに生まれる。そうして、わたしたちは神の御業を邪魔してしまう。
そんな時にこそ、「へブライ人への手紙」を手に取って読み、祈りながら通読すべき手紙である。この手紙は宗教観が行き過ぎたクリスチャンに向かって書かれている。この手紙は「イエス」に何かを付け加えたがるクリスチャンのために書かれたのである。「へブライ人への手紙」の中には「イエスと天使」「イエスとモーセ」「イエスと祭司」という具合に、「イエス」に何かを付け加える人々のことが書かれている。現代風に言い換えると、それは「イエスと政治」、「イエスと教育」、「イエスとブッダ」という感じになる。この手紙は、「イエスと○○」という、そこにある「と」の字と、それに続く付加物を消去するのだ。そうして、再度、鮮明に・明確に、イエスにおける神の御業に焦点を合わせる。そうして、わたしたちは再び信仰に沿った生き方を行う自由な身になる。その生き方とは、神の御業を邪魔しない唯一の生き方であり、神の意志にそった生き方である。
宗教的な言葉をレースの詩集のように編み上げて、それで自分の言葉を飾り立てたとしても、それでその言葉を真実なものとする ―― そのようなことをしてはいけない。言葉をより宗教的にしてみると、真実はそこから消えて行く。ただ、「然り」は「然り」、「否」は「否」と言いなさい。
―― マタイによる福音書5章36~37節