「霊的な指導」において「〇〇を『する』」という助言はほとんどの場合不適切である。というのも、「何を『する』べきか」ではなく「どう『ある』べきか」について混乱し、あるいは満足できない人が「霊的な指導」を受けようとやって来るのだ。その際に求められるのは、その人そのものに注意を払ってくれる友人である。「プロジェクトマネジャーとして沢山の仕事を次から次へと任せられること」に注目して欲しいと思っている訳ではない。軽率な行動は常に避けた方がよい。軽率な行動をとると、どう「ある」のかについて考えることから、暫(しばら)く気を逸(そ)らすこととなる。そうすれば、一時的な(そして、歓迎される)安堵感を得ることが出来る。それはちょうど、かつてジョージ・フォックス【George Fox 1624-1691. ピューリタンでクエーカーの創始者】が『ジャーナル』という書物の中で「薬を与え、放血する」ことは、非常に曖昧(あいまい)な状況の中では、とても魅力的なものとなる。はっきりとした行動によって白黒をつけることは、物凄い満足感を与える。しかし、そこには霊の成長も、成熟への進展もない。牧師はこの点で特に危険に曝(さら)されている。
牧師は文化的なことや教会の中のことで「何かしなければ」という強迫観念に憑(と)りつかれてしまう。わたしたちは今の時代に生きているということだけで、この強迫観念に囲まれてしまう。「何かしなければ」という声に用心し、警戒を怠らないようにしなければならない。「何かしなければ」という罠に陥らないためには、用心と警戒を怠ってはならない。
イエスは言われた。
疲れていませんか?
疲労困憊(こんぱい)していませんか?
宗教に熱心になって燃え尽きていませんか?
わたしの御許に来なさい。
わたしと一緒に逃避しよう。
そうすればあなたの命を回復させよう。
どうしたら、あなたが本物の休みが得られるか、
その方法をわたしが教えよう。
わたしと共に歩き、わたしと共に働こう。
わたしのやり方をよく見ていなさい。
恵みの自然なリズムに学びなさい。
―― マタイよる福音書11章28~29節