ある一つの陰謀がある。極めて多くの人々が、その陰謀に引っかかている。その陰謀は「祈りと聖書と霊的な指導をわたしたちの生活から消し去る」というものである。その陰謀に引っかかって、とても多くの人が「自分たちの価値観で評価できるもの」に関心を寄せるよう仕向けられている。つまり、膨大な人々は「牧師のイメージや立ち振る舞い」や「教会形成を成功させるための計画」そして「目覚ましい出席者数を示す統計表」あるいは「社会的インパクト」と「経済的な実現可能性」などに関心を寄せている。人々はこうした事柄の会議を設定し、予定表を満たすよう全力を傾ける。その結果、牧師は一人で過ごして自分自身を取り戻すゆったりとした時間を失い、神の御前で過ごすことも、聖書に沈潜(ちんせん)することも、誰かとじっくり向き合うことも出来なくなっている。
わたしち牧師は、神に注意を払うことなく、牧師としての基盤も失いながら、教会と信徒たちの支えで牧会の仕事をこなしていく。しかし、だからと言って牧師が(この「陰謀」の)責任逃れをするわけにはいかない。ある定義では、「専門職」とは人々の好みに迎合することなく、また人々が支払う代償によって態度を変えることなく、その専門領域全体と実践に関わる人々だという。今日、このようなプロ意識はあらゆる場面で姿を消しつつある。すなわち、医療、法律、政治、そして牧師からも……。
しかし、プロ意識はまだ完全に失われてしまったわけではない。今なお時代の要求する安易なわざを頑固に拒み続ける「専門職」は、無視できないほど存在している。自分たちがその召命感に対して忠実であり続け、困難な働きを遂行している「専門職」たちが、この世の様々な分野において数多く残っている。
……神の御言葉を手に取って、それを水で薄め、路上で安売りする ―― そんなことを、わたしたちはしない。神の言葉を話す時、わたしたちはキリストの臨在の中に立っている。神は真正面から真剣な目でわたしたちを見る。わたしたちは、自分たちが語る言葉を神から直接受けとり、可能な限り誠実に語るのである。
―― コリントの信徒への手紙(二)2章17節