学校勤務をしている者にとって、2、3月は生徒たちの成長と旅立ちを強く感じる季節である。卒業感謝礼拝があるからだ。3学期ともなると、高校3年生とは特定の登校日を除き会う機会は少なくなる。学内で久しぶりに顔を合わせると、進路へ向けて期待と不安の混じった顔に気づく。彼らにとって高校を訪れる機会はわずかだ。だからなのか、卒業アルバムに何か言葉を記してほしいと頼まれることがある。彼らが最後に求めるのは、言葉という贈り物なのだ。
思い起こすのはシュライアマハーの次の言葉だ。「人間が人間に贈りうるもののうちで、人間が心情の奥底で自分自身に語ったものにまさる贈り物はない」
言葉というものは難しい。求められるのは見栄えの良い字面ではなく、それを紡ぐ本人が求められるからだ。思えば私も多くの言葉に助けられてきた。聖職按手の時に贈られた言葉、死に臨む人たちから贈られた言葉、遺族から贈られた言葉。そして聖書のみ言葉である。
「はじめに言があった」。非常に印象的な叙述で、ヨハネによる福音書は始められている。主イエス・キリストとはどういう方か、私たちとどういった関係があるのか。そのことを福音書はこの語句で示そうとしている。これは大昔より議論がされていた単語であった。ギリシャ語で言葉や理性を意味する「ロゴス」と書かれている。一方で教会は長い間用いてきラテン語聖書で、素晴らしい訳をもって伝えてきた。理性を意味する「ラチオ」というラテン語ではなく、「ウェルブム」という単語を用いたのだ。ウェルブムとは言葉を意味する。つまり主イエスは「言葉」であるとラテン語聖書は語りかける。
人間は「言葉」を用いて、何かを誰かに伝える。音声としての言葉、文字としての言葉、身振りとしての言葉、生き方としての言葉によって、私たちは思いを伝える。人がこの世に生まれてきて最初に伝えられる思いは、幼子を抱きしめる誰かの温もりである。その思いは、幼子に対する思いでもあり、この命への感謝という神に対する思いでもある。人が初めて伝えられる言葉は、神と人とに対する愛そのものである。だから私たちは普段暗闇のただ中にいるというのに、光に照らされていることを知る時、神と人とに愛される喜び、神と人とを愛したいという喜びに、人生が動かされるのだ。
主イエスの生涯は、まさにこの愛そのものであった。人間を最後まで愛されたがために、人間の暗闇によって十字架にかけられ、しかし人間を愛されたがために、私たちの暗闇の中に復活されたのだ。主イエスはまさに「言葉」そのものであり、愛を「言葉」によって語られ、生きた「言葉」として伝えられる方だった。同時に「言葉」というものは、誰かによって語られるものである。主イエスは誰かによって語られていく方であるということだ。多くの人の人生を通して、語り継がれていく方なのだ。
「道を伝えて、己を伝えず」。これは日本聖公会初代主教ウィリアムズを評しての言葉である。私たちに求められているのは己を伝えることだろうか。それとも私たちを通して語られる神の愛を伝えることだろうか。贈る言葉が求められるこの季節、復活日を前にした大斎節(四旬節)のこの季節、己を通して紡がれる思いを今一度自分自身の心情の奥底で探ることとしたい。
與賀田光嗣(神戸国際大学付属高等学校チャプレン)
よかた・こうし 1980年北海道生まれ。関西学院大学神学部、ウイリアムス神学館卒業。2010年司祭按手。神戸聖ミカエル教会、高知聖パウロ教会、立教英国学院チャプレンを経て現職。妻と1男1女の4人家族。