2月20日「祝福されたこの人生」

下記は詩編128編に基づく

キリスト教の祝福とは「受けるよりも与える方が幸いである」(使徒言行録20章35節)ということに気づくことである。「与えること」と「分かち合うこと」を学びを始める中で、わたしたちの活力は増し、周りの人々が「実り豊かな葡萄(ぶどう)の枝」【詩編128編3節】や食卓を囲む「オリーブの芽」【詩編128編3節】となる。

クリスチャンには約束された祝福がある。クリスチャンに宣言された祝福がある。クリスチャンは祝福を経験する。しかし、それによってさまざまな困難がもちろん取り除かれるわけではない。聖書は決してそう述べていない。「信仰には必ずさまざまな困難が伴う」ということでもない。ただ、さまざまな困難が「外部」から襲って来る。それは「世の誘惑」や「肉の欲」や「プレッシャー」という形でやって来る。この三つの脅威は古代からあったものである。それらの脅威がなかった日は一日もなかったのだ。中世のクリスチャンはそれらを「この世」と「肉体」と「悪魔」という言葉で要約したのである。

まず「この世」がある ―― 高慢で傲慢(ごうまん)な人間社会が、歴史の中に置かれた神の法に歯向かい、歴史の中から神の臨在を消し去ろうとするのである。また「肉体」がある ―― 人類は堕落しているために、罪がわたしたちの欲望と本能を導くのである。また「悪魔」がある ―― 悪意にみちた意志があり、神の意志からわたしたちを退けようと試み誘惑するのである。わたしたちはそれら全てと戦わなければいけない。わたしたちは闘いの只中にある。戦わざるを得ない信仰の闘いがある。ただし、信仰の道そのものは「神が為してくださったこと」と「神が為しつつあること」と調整が取れている。わたしたちの旅路は、多くの先人も通ってきた、神の弟子としての道である。「退屈な道」や「絶望の道」や「混乱の道」でもない。「暗中模索の惨めな道」ではなく、「祝福の道」である。

この祝福の歩みに関わるコツは何も要らない。「運がよくなければ駄目だ」ということもない。わたしたちは単純にクリスチャンとなり、信仰の道を歩み始める。わたしたちの「創り主」であり「わたしたちを愛してくださる方」である神に感謝を覚え「神と共に生きる者」となる道を拓(ひら)いてくださったキリストを頂いて生きるのである。「神がわたしたちの存在の中心にある」という真理が伝えられ、宣言された。それを受け容れるわたしたちは、「神がこの世をどのように組み立てられたのか」について(つまり「神の創造」について)理解し、「神がどのように贖(あがな)う道を拓いたのか」が分かるようになり、その道を歩み続けることになる。詩編の端的な言葉を用いて言うならば、「いかに幸いなことか、主を畏(おそ)れ、主の道を歩む人よ」。

この極めて気前のよい神が、農夫に種を与え、そしてその種からあなたたちのパンの種が作られるようにしてくださった。この神が、あなたがたと共にいる。その恵みは限りない。それで、あなたたちはよい物を喜んで手放し分け与えることが出来るようになる。あなたがたが手放したそのよい物は、完全な命へと成長し、神の内に堅固な足場をもって、あらゆる道において豊かに増えて行く。そのように、あなたたちは、あらゆる方面で気前のよい者となることが出来る。そうして、あなたたちは、わたしたちと共に、神を大いに称える者となって行く。
―― コリントの信徒への手紙(二)9章11~12節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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