【断片から見た世界】アリストテレス『ニコマコス倫理学』

言わずと知れた古典の中の古典であるアリストテレスの『ニコマコス倫理学』であるが、2024年の現在を生きている私たちは、この著作からはたして何を学ぶことができるのだろうか。ここでは極めて簡略ながら、おおまかなスケッチを試みてみよう。アリストテレスは探求の冒頭のまとめの箇所において、次のように言っている。

アリストテレスの言葉:
「[もしかくのごとくであるとするならば、]『人間というものの善』とは、人間の卓越性(アレテー)に即しての、またもしその卓越性が幾つかあるとき、最も善き最も究極的な卓越性に即しての魂の活動であることとなる。」

『ニコマコス倫理学』(この本は他のアリストテレスの本と同じように、彼が行った講義の内容をまとめたものであると言われている)の全体を要約するような一説である。ここでは、「人間というものの善」、すなわち幸福は、アレテーに即しての魂の活動を通してこそ実現されるという主張が展開されている。活動とは何か、そして、アレテーとは何だろうか?できる限りシンプルに噛み砕きつつ、この主張を紐解いてみることとしたい。

幸福は活動すること(エネルゲイア)によってこそ実現されるというのが、『ニコマコス倫理学』が提示する根本的なヴィジョンに他ならない。アリストテレスによるならば、人間というのはあくまでも活動しなければならないのであって、暖かい布団の中でくるまっているだけでは決して幸せにはなれないのである。いや、一面において、何もせずにいることのあのいわく表現しがたい至福感は何物にも代えがたいということも否定しがたいのではあるけれども(cf.アリストテレスの「活動」を根底に置きつつ行われた、アガンベンの「無為」に関する労作『王国と栄光』はこの点、非常に参照になる)、試しに三日三晩布団の中でくるまり続けてみるならばほぼ確実に、そろそろ外に出て、何かしてみてもいいかなという気分になってくることだろう。幸福はエネルゲイアに、活動することにこそある。私たち人間はそれぞれ、何らかのとてつもないポテンシャルを秘めつつ世界内存在しているのである。「どんな人間でも、自分で思っている以上のことができる」(ヘンリー・フォード)のだ。困難も苦労もあるだろうけれど、活動に活動を、エネルゲイアにエネルゲイアを繰り返すことを通して、そのポテンシャルをいかんなく解放してゆくことでこそ人間は幸福になれるというのがアリストテレスの立場なのである。

②ただし、どんな活動でもいいというのではなく、アレテーに基づいた活動こそが人間を真の意味で幸福にするというのが、もう一つの重要なポイントである。アレテーは通常「徳」あるいは「卓越性」と訳される言葉であるが、ごく簡単に言い換えるならば、「すごさ」とでも表現するのが日常語の感覚に最も近い。Adoの歌はすごい。大谷翔平のスーパープレイもすごい。レペゼンフォックスのふぉいさんは、どうしてあんなにナイスガイなのだろう。『ニコマコス倫理学』の主張は明快である。人間としてのスーパープレイを見ていると、私たち人間は自然と鼓舞され、インスパイアされ、勇気づけられる。目指すところは人によってそれぞれ異なるものと思われるけれども、私たちも、自分にできる限りのことを挑戦してみてもよいのではないか。自分自身の「栄光」(ティメー)に満ちた活動へとたどり着くことで幸せになろうというのが、アリストテレスが読者(講義の聴講者)に対して行っている提案にほかならない。

アリストテレス、哲学、ニコマコス倫理学

 

さすがは古代人、という感じである。古代ギリシア人たちは私たち現代人に比べて、デフォルトで意識が高かった(いささか高すぎたと言ってもいいくらいである)。幼いころから謙遜という美徳を教えこまれている、あるいは、空気を読む訓練をひたすらストイックに積まされ続けている現代の日本人としては、「いやあ、そんなこと言われましても、わたしなんて……」とつい反応したくなってしまうところである。だが、先ほど引用した箇所の直後でアリストテレスは、こうも言っている。

アリストテレスの言葉:
「のみならずまた、それは究極の生涯においてでなくてはならない。まことに、一羽の燕が、またある一朝夕が春を持ちきたすのではなく、それと同じように、至福の人・幸福な人を作るものは一朝夕や短時日ではないのである。」

いったん『ニコマコス倫理学』を離れて、2024年の現在のことを考えてみよう。現代の世界では、生き残るための競争がどんどん苦しいものになってきている。Adoの歌詞を借りるなら、まさに「半端ならK.O.」の世界が到来しつつあるというのは多かれ少なかれ誰もが痛感しているところであって、「何者かになってやる」と思って奮闘する人々の多くが、あるいは、ただ平穏に生きてゆくことを願っている人々の多くもまた、その途上で病みそうになったり、実際に病んだりしているのである。「そもそも、テクノロジーとかはそれこそめちゃくちゃなスピードで発展しているはずなのに、なんで生きるのってこんなに苦しくなってきているのだろう?」という問いに答えるには歴史的な探求が必要なところかもしれないが(人はこの点に関して、マルクスなりマックス・ウェーバーなりミシェル・フーコーなりを思い起こすこともできるであろう)、今この時の瞬間の私たちの生きづらさがにわかにもいかんともしがたいほど大変なことになってきていることは、どちらにしろ動かさなそうだ。こういう時代の状況にあって、哲学や思想の営みには果たして何ができるのだろうか。

『ニコマコス倫理学』の上の言葉に立ち戻ってみる。周辺の箇所も合わせて考えてみると、アリストテレスはおおむね次のような意味のことを言っている。本当の意味ですごい人になるには、非常に多くの時間がかかる。というか、より正確に言うならば、それこそまさに一生涯の全体が必要なのである。そうだとすれば、私たち人間はいたずらに焦ったりすることなく、大きく構えてみてもいいのではなかろうか。実際、これがアリストテレスが私たちに伝えようとしているメッセージなのであって、彼は『ニコマコス倫理学』の中の別の箇所では、「何よりもまず、魂の大きな人間になろう」との趣旨の論を展開しているのである(「メガロプシュキア」に関して論じている、第四巻第三章参照)。

「大きな人間になろう」と言われると、これはこれでプレッシャーもあって、いや、僕なんて/私なんて小さい人間ですからとつい卑下したくなってしまうが、この点に関するアリストテレスの立場は非常に明快である。時間などは、どれだけ長くかかっても構わない。アレテーのある人間になるための道は、もともと険しくて苦しくて長いのである。だが、いかなる困難にも決して屈することなくその道をまっすぐに歩んでいくことのうちにこそ、人間の幸福が存在している。いっさいの遠慮なしに読者(聴講者)をぐいぐい攻めてくるこのスタンスをどう受け止めるかは人それぞれかもしれないけれど、こういう直接的なメッセージに出会えるというのは、古典を読むことの利点の一つであるとは言えるのかもしれない(遺憾ながら現代の本というのは、行き過ぎのポリコレなり謎の忖度なりで、もはや何が言いたいのか分からなくなっているものも少なくないのである)。どちらにしろ辛いものは辛いのだったら、もう覚悟を決めて暗闇の荒野に道を切り開くべく、自分自身の「栄光」に向かって突っ走ってみるという道もありうるのではなかろうか。ともあれ、『ニコマコス倫理学』は今日の私たちに対しても、時に破れかぶれになってでも何とか生き残って、自分なりのアレテーを目指してマラソンを走り続けてみてもよいのではないかと誘いかけているように思われる。時を経て、さなぎから一羽の美しい蝶が孵るように、苦しみ抜いた実存が、他者にも限りなく多くのものを与えることのできる「栄光の人」へと生まれ変わる可能性は常に与えられているのである。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

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philo1985

philo1985

東京大学博士課程で学んだのち、キリスト者として哲学に取り組んでいる。現在は、Xを通して活動を行っている。

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