聖書の読み方は人それぞれだ。日々の魂の糧としてページを開く、イエスの物語に心打たれる、あるいは研究の対象として分析する。僕は聖書の読み方に正解はないと思っている。そもそもこう読めと聖書のどこにも記されていないし、誰もが自由に思考を巡らせることがむしろ大切だと思う。
しかし、聖書を読み進めるとさまざまな疑問が湧いてくる。「これはどういう意味だ?」「自分にとってこの言葉は何を語ろうとしているのか」……。ボンヘッファーは聖書を読み続けると最終的にぶつかる問題についてこう言っている。
私はこの現実の世界のただ中でキリスト者としてどのように生きたらよいのか。そしていったい何が人間に本当の生きがいのある人生を可能にさせるのか。
僕は毎日聖書を読む。それは崇高な信仰でも敬虔さから湧き出るルーティンでもない。今日も人生に迷っているのだ。将来のビジョンからどんなひと言が人を助けることになるのか、そして自分自身の存在とはどんな意味があるのかと。
だけど実際読めば読むほど分からないし、答えが記されている感触もない。その時、僕は少し斜に構え自分に言い聞かせる。「これは僕の聖書解釈に問題があるのだ。ギリシャ語を駆使して、テキストの社会学的・地理学的背景を把握すればより立体的になる」。しかし、しばらくしてから気づいた。これは聖書を理解する上では役に立つが、聖書の言葉が僕に語りかけようとする時間を壊してしまっているのではないかと。
ボンヘッファーはこう言う。
「本文批評」というような学問的・専門的な立場から読むこともできます。これについてここで何も言うつもりはありませんが、これが聖書の本当の内容を明らかにするのではなく、ただ聖書の表面的な事柄を明らかにするにすぎないということだけ言っておきましょう。
「本文批評」とは聖書の文章を分析し、可能な限りオリジナルの姿に近づけようとする神学研究の一つである。
一応言っておくがボンヘッファーは21歳で博士号を取った秀才であり、間違いなく当時のドイツでも指折りの神学者であった。しかし、その彼が行き着いた先はいわゆる研究という方法によって聖書を手に取ることを許さなかったのだ。では、彼はどのように読んだのだろうか。それについてこう述べる。
聖書から答えを得るためには、たゆまず、謙虚に問い続ける必要があると考えています。聖書は他の書物のように、簡単に読み流すことはできません。私たちは、聖書に現実の問題を問う準備をしなければなりません。
聖書とは神がその真剣さと情熱を持って人間に語りかけ続けた「魂」である。そしてイエス・キリストが人間をどのような姿であっても救おうとして自ら十字架にかかった「遺書」でもある(旧新約聖書を英語にしたOld Testament / New TestamentのTestamentは「遺言」という意味だ)。つまり神はその本質において、分析の対象として聖書を残したのではなく、今日を生きる人間への魂のメッセージとしてこれを世界に送った。
では、僕たちは何ができるのだろうか。それは今日もこの聖書1冊に自分の人生をぶつけることだと思う。そこに綺麗事や解説書は要らない。どれだけブサイクな姿になろうが、希望が見えないような現実と自分を背負いながら今日も1ページ、1段落、ひと言に触れるのだ。いやむしろ、そんなズタボロな姿が良い。なぜならキリストもまた、ズタボロな姿で私たちの前に立とうとするから。
私たちを愛し、私たちの問いを決してそのままにしておかない神が実際にここで私たちに語りかけているのだというように聖書を読むならば、私たちは聖書を本当の喜びとするようになるでしょう。
さて、今日あなたは聖書のどの箇所を開くだろうか、いま抱えている絶望に近い悩みは何だろうか。今日、僕も聖書を開く。ありのままのブサイクな自分を背負って。そして一緒に聞きたいと思う。神の言葉を。
引用:R・シュライヒャーへの手紙(1936年)
ふくしま・しんたろう 牧師を志す伝道師。大阪生まれ。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝などの運営に携わる。同志社大学神学部で学んだ弟とともに、教団・教派の垣根を超えたエキュメニカル運動と社会で生きづらさを覚える人たちへの支援について日夜議論している。将来の夢は学童期の子どもたちへの支援と、ドイツの教会での牧師。趣味はヴァイオリン演奏とアイドル(つばきファクトリー)の応援。