戦中、アメリカの日系人収容所に送られる彼らを見送る直前の日曜日。その日なされた説教は、苦しみの中にある日系人クリスチャンたちへ、イエスに希望を見出し、集い続けるよう勧めたものだった。「クリスチャニティ・トゥデイ」に、カリフォルニア州の教会開拓指導者でカウンセラーのトム・スギムラ氏(ニューライフ・チャーチ牧師)が寄稿した。
多くの日系アメリカ人クリスチャンは、1941年12月7日の真珠湾攻撃について、日曜礼拝から帰宅したときに初めて耳にした。カリフォルニア州バークレーにあるパシフィック・スクール・オブ・レリジョン(Pacific School of Religion)では、日本人学生が教授陣とともに集まり、夜遅くまで祈りを捧げた。日系人に対する夜間外出禁止令が出される中、牧師たちは家に身を寄せ合う怯えた教会員たちに電話をかけた。
その10週間後、フランクリン・ルーズベルト大統領は大統領令9066号を公布し、太平洋沿岸の日系アメリカ人12万人近くを強制収容所に移した。1942年の春にかけて、シアトル、サンフランシスコ、ロサンゼルスなどの都市の電柱に、「外国人、非外国人を問わず、日本人の血を引くすべての人」が強制退去させられる日付と、その引き取り先を知らせる公示が出され始めた。
各家族は、持ち運べる荷物は何でも持っていくということことしかできず、家、会社、農場、教会、地域社会、そしてペットさえも置き去りにした。その後、当局は彼らをその場しのぎの集合キャンプにバスで移動させ、そこで数カ月間生活させた後、内陸部にある10カ所の移転センターのいずれかに移送した。
私の祖父母と2人の幼い子ども、叔父と叔母は、カリフォルニア州デスバレー近くのマンザナー移転センターに収容された。上の世代は収容所についてほとんど語らなかったので、私は大学で、家族の物語を知るために収容所について勉強し始めた。今、私は牧師として、日系人教会がわが国の歴史の中で困難な時期にどのように魂のケアを実践していたかにまで研究を広げている。
第二次世界大戦が始まるまでに、日系人教会の数は約100に達し、そのほとんどは日本からの移民である一世に率いられていたが、アメリカ生まれの日系二世も含まれていた。これらの信徒たちは、立ち退き前の数日間、日系人牧師たちの行動や説教に代表されるように、互いを思いやり、悲しみと恥辱に耐えていた。
調査の過程で、私は『The Sunday Before』と題された未発表の原稿を発見した: The Sunday Before: Sermons by Pacific Coast Pastors of the Japanese Race on the Sunday before Evacuation to Assembly Centers in the Late Spring of 1942(退去前日の日曜日:1942年晩春のアセンブリーセンターへの退去前日の西海岸日系人牧師たちによる説教』と題された未発表の原稿を発見した。バプテスマのヨハネのように、日系人牧師たちは荒野で声を上げ、イエス・キリストにあって希望のメッセージを告げた。しかし、彼らはまた、収容所の鉄条網の向こうで、群れと共に苦しみ、礼拝を導くことによって、積極的に信仰を実践した。不当な苦しみに直面した彼らの証しは、現代の私たちがどのように魂のケアをすればよいかの模範となっている。(特に断りのない限り、以下に引用する説教のほとんどは『The Sunday Before』からのものである)。
神の御言葉の意図
避難の数日前、日系人牧師たちは、アブラハムやモーセ、バビロン追放の忠実な残りの者のような旧約聖書の巡礼者を思い起こすよう、不安がる群れに勧めた。彼らはまた、新約聖書の迫害された教会への手紙やキリスト自身の模範から、信徒の「苦難学」を強化しようと努めた。あの緊迫した日々、そしてこれから始まる数ヶ月の間、牧師たちは、ダニエルがライオンの巣穴で祈ったように、パウロとシラスが獄中で賛美を歌ったように、そしてイエスが「ご自身の前にある喜びのゆえに」(ヘブライ人への手紙12:2)十字架上で進んで耐え忍ばれたように、神が苦しみの中で喜べるように力づけてくださることを、仲間の信徒たちに思い出させた。信者の信仰は状況によって決まるのではなく、むしろ状況に対する反応によって決まるのである。
4月5日のイースターの日曜日、ジョン・ヤマザキ氏はセント・メアリーズ・エピスコーパル(監督)教会の説教壇から、ピリピの信徒への手紙3:10を引用しながら、キリストの復活の力は苦難を通してのみもたらされると宣言した。1913年からセント・メアリー教会を牧会するヤマザキ氏は、聖金曜日がイースターに先立つものであることを告げながら、退去(エジプト脱出)生活の中で神が恵みを与えてくださったことを聖書の中で例証した: アブラハムはウルを離れて神が示される地に向かい、イスラエル(神の民)は約束の地に着く前に荒野をさまよった。
「ヨルダン川を渡り、新しい指導者ヨシュアの指導の下、約束の地カナンに向かったのは、新しい世代の人々、言ってみれば「第二世代」、あるいは「出エジプトの二世」と呼んでいる」と彼は語った。
ヤマザキ氏は、バビロン捕囚、エルサレムを再建するために帰還した残りの者、そしてイエスが生まれたベツレヘムへのマリアとヨセフの旅について続けた。「これこそ、神が私たちのために持っておられる、より高く、より偉大な道なのだ」とヤマザキ氏は言った。「だから、もし私たちの人生において立ち退きが命じられるのであれば、聖書に記されている歴史上の例がある」
彼の説教の翌日、「66台の小型トラックと車、6台の大型トラック、13台の公共(パシフィック・エレクトリック)バス」からなる悲しみのキャラバン隊が、セント・メアリーの出発地点から700人を運び、「マリポサ通りとオリンピック通りの近辺はほとんど空っぽになった」と、ジョアンナ・ガレスピーによる『聖公会とエピスコパル(監督教会)史』誌の記事に記されている。ヤマザキ氏はその後、アーカンソー州のジェローム収容所でエピスコパル教会を牧会することになる。
戦後、セント・メアリー教会は、元々住んでいた家が奪われ、他に住むところのなかった日系人移住者のための避難所となり、情報センターとなった。ヤマザキ氏は、ロサンゼルス日本人聖職者協会の会長を務め、1956年に息子が主任牧師に就任するまで、セント・メリーズの牧師を続けた。
キリストの苦しみ
シゲオ・シマダ氏は日本で育ったが、キリスト教という「外国の」宗教を信じていたため、父親から勘当された。彼は神学校で学ぶために、片言の英語と200ドルしか持たずにアメリカに移住したが、日本で自分を救ってくださった神が遠い地でも自分を養ってくださるという真理にしがみついていた、と彼は著書『A Stone Cried Out:A Stone Cried Out石が叫ぶだろう -アメリカに渡った日本人牧師の自伝: The True Story of Simple Faith in Difficult Days(困難な日々におけるシンプルな信仰の真実の物語)』で書いている。
収容所に送られる前の2月15日の告別式で、シマダ氏はサンフランシスコのベイエリアにあるアラメダ日本人メソジスト教会に、キリストの苦しみを思い起こすよう勧めたと、著書は記している。
「あなたも私も、この戦争のために大きな苦しみを味わっているし、これからも味わうことになるだろう。これは私たちのキリスト教信仰を試す機会だ。すべての苦しみを直視し、来るべき苦難を忍耐強く耐え抜こう。どんな試練であろうと、希望を捨てないようにしよう。…皆さんは皆クリスチャンであり、神の国の市民であることを忘れないでほしい。一世の人々は敵性外国人と呼ばれ、残念ながら二世も外国人のように扱われている。しかし、私たちは神の敵国人になってはならない。どこに行こうとも、どんな状況にあろうとも、神の子として振る舞ってほしい」
シマダ氏は、ローマ帝国下の初代教会の迫害と日系人の迫害を重ね合わせながら、日系人が将来直面するであろう苦しみを隠そうとはしなかった。ペテロは、同じように故郷を追われ、不確かな未来に直面していたキリスト者たちに向けて手紙を書いた(一ペテロ1:1)。彼らもまた、自分たちに何が起こるかについてほとんど発言することなく、厳しい権力に服従していた(2:18)。
しかし、シマダ氏は彼らに、イエスのようになるようにと呼びかけた。イエスの謙遜は弱さのしるしではなく、むしろ計り知れない強さのしるしであった: 「キリストがあなたがたのために苦しみを受け、あなたがたに模範を残されたので、あなたがたは彼に従うよう、このように召されたのだ(2:21)。教会の苦しみは驚くべきことでもかつて経験されなかったことでもなく、キリストの苦しみを喜んで共有する機会なのだ。キリストがあなたがたのために苦しみを受け、あなたがたに模範を残されたからだ。忠実な忍耐が、自分たちを主であり救い主であるキリストに似せてくれると知っているからである」
シマダ氏は自身すぐに試練にあうこととなった。彼の家族は、サンフランシスコの南にある元競馬場、タンフォラン・アッセンブリー・センターの最も不潔な馬小屋に住むことになったのだ。一家が寝泊まりしたのは、掃除もされずに白塗りにされた古い厩舎だった。作業員は糞尿の山の上にリノリウムを敷いていたため、昼も夜も腐敗臭が充満し、髪や衣服が汚れるほどだったと彼は著書に書いている。シマダ氏は、キリストの贖罪の犠牲について考え始めるまでは、動物のように扱われることに憤りを感じていた。
「私の思いは、私たちよりもずっとひどい家畜小屋で生まれたイエス・キリストに向けられた。しかし、マリアとヨセフは自分たちの悲惨な状況に不平を言わなかった。羊飼いたちがイエスに会いに来て礼拝したとき、それは天国のような光景だった。きっと家畜小屋は栄光に満ちていたのだろう。しかし、20世紀の別の馬小屋には、恨み辛みの感情しかなかった。なぜこのような違いが生まれたのか。それは心の違いだった。マリア、ヨセフ、羊飼いたちは神と深く関わっていたのに対し、私たちの馬小屋にいた私の心には神が不在だった。私は自分を深く恥じた。聖家族がそうであったように、馬小屋に入れられたことは、他ではできない経験であったと気づいたとき、私の心の中の憤りや恨みに代わって平和の精神が生まれた」
シマダ氏の家族はユタ州のトパーズ転住センターに移されたが、そこではしばしば扇動家たちがキリスト教牧師を親米スパイだと非難していた。シマダ氏は寝床の外で看守と寝なければならなかったが、神から与えられた群れを忠実に牧した。
戦後、シマダ氏は日系教会の牧会を続けた。彼はまた、勘当され路上に投げ出されてから25年以上も経ってから、老いた父親をキリストに導くことができた。
集まった教会の交わり
カリフォルニア州オレンジ郡にあるウィンタースバーグ日系長老教会牧師のソウヘイ・コウタ氏は、4月19日、ロサンゼルスのユニオン教会で、若きドナルド・トリウミ氏の就任礼拝の説教を行った。彼は日系クリスチャンに対し、信仰を持って主に従っただけでなく、主を礼拝し続けたアブラハムの模範を守るよう促した:「アブラハムはどの新しい土地を訪れても、まず神に祭壇を築いた」。彼はまた、教会は単なる建物ではなく、主に人々で構成されていることを強調した。
「私たちが共に遊び、共に祈ったこの教会、共に語り合い、共に働いたこの教会、共に歌い、共に犠牲を捧げたこの教会から、ごく短い時間のうちに、私たちは出て行かなければならない」と彼は説教した。「しかし、私たち日本人は…… 憎しみや恨みではなく、力強い移住の指導者であるアブラハムのように、信仰と希望と愛に満たされる。私たちは、神が望まれるところならどこへでも行き、行く先々で、かつてのアブラハムがそうであったように、あらゆる場所の人々を祝福しよう」
コウタ氏と彼の教会の多くのメンバーは、アリゾナ州のポストン・リロケーション・センターに辿り着き、そこで彼はポストン・クリスチャン・チャーチの牧師チームに仕えた。他の収容所と同じように、この教会には、一世、二世、日本語や英語を話す人など、様々な教派の教会員が集まっていた。使徒信条のような幅広い教義を採用し、どの賛美歌を歌い、どのように説教を回すかを共同で決めた。多様性の中の一体感という彼らの美しい姿は、初代教会の例に倣い、キリストの来るべき王国を予期させるものであった。
戦後、コウタ氏はユニオン・チャーチに「エバーグリーン・ホステル」と呼ばれる再定住センターを設立し、多くの日系人を積極的に支援した。
共に在るミニストリー
多くの日系人牧師は、言葉だけでなく、共に在ることによるミニストリーを通して会衆を慰めた。ロサンゼルス日本人メソジスト教会の若き牧師レスター・スズキ氏は、コロラドにいる妻の家族が避難所を提供してくれたので、収容を避けることもできた。その代わりに、彼と彼の家族は群れと共に苦難に耐えることを選んだ。
4月26日、強制連行される前の日曜日、スズキ氏は会衆の前に立って説教した。「兄弟たち、私たちは避難の前夜を迎えています」彼は言った。「私たちは家や教会から避難し、見知らぬ場所に連れていかれなければなりません。自分たちの聖域で礼拝できる最後の日曜日です」
スズキ氏は、自分たちの手で建て、自分たちが稼いだ給料で賄った礼拝堂を後にすることを教会とともに嘆いた。多くの人々が子どもの頃から日曜学校に通っていたが、今や戻る保証もなく立ち退きを余儀なくされていた。
1週間もしないうちに、スズキ氏は妻と2人の子どもを連れて、彼らも数か月馬小屋で過ごすであろうロサンゼルスの北東14マイルにあるサンタ・アニタ競馬場行きのバスに乗り込んだ。群れを励ますのが彼の役目だったが、バスが彼らの家を離れるとき、涙が溢れるのを止めることはできなかった。
サンタ・アニタでは、スズキ氏はクリスチャン・ユースの活動委員長に任命された。避難者の半数近くが10歳から29歳であったため、青少年ミニストリーは盛んであった。4200人の住民の3分の1から4分の1が日曜朝の礼拝に出席し、グランドスタンドで賛美歌がポータブル・オルガンで演奏された。「かつて絶叫する競馬ファンを収容していたサンタ・アニタ・スタジアムは、今では私たち若い声によって神を賛美する歌が響き渡っていた」と渡辺みどり氏は『信仰の勝利』の中で書いている。
スズキ氏は戦後、コロラド州アマチェキャンプでグラナダキリスト教会を指導し、日系社会の歴史家として活躍することになる。彼は、収容所におけるキリスト教宣教について博士課程で研究を行い、彼が牧会した教会のメンバーから多くの口述インタビューを行った。
彼は『第二次世界大戦中の集会と移設センターにおけるミニストリー』という著書の中で語っているように、彼は自らの牧会者としての効果を共に在るミニストリーに期している。
「(移設)センターでの経験は、戦後の時代に宣教する人々の内なる感情を伴う深い意味での感受性を、すべての牧師に与えた」と彼は記している。「特別な特権を与えられることなく共に苦しみ、剥奪、屈辱、侮辱という共通の教訓を学んだにもかかわらず、尊厳と人格の強さ、そして神へのはるかに深い信仰を持って出てきたという共通の経験は、彼らが自由な国から来た場合よりもはるかに効果的な宣教師となった」
日系人強制収容所におけるこの魂のケアの働きは、今日の教会に、苦しみを受けた同胞と共にあり続けること、共に集まり続けること、そして神の御言葉全体からキリストの御姿と御業を互いに思い起こさせることを強いている。
(翻訳協力=中山信之)