2018年7月2日、降り続いていた雨により増水した長良川で事故のため1人の青年が亡くなった。時々、教会の礼拝にも顔を出してくれるピュアで明るい性格の青年だった。我が家の子どもたちの友人でもあった。ご家族にこちらから願い出て、教会でお別れの会をさせていただいた。遺体を引き取り、礼拝堂に安置した。全国から多くの若者たちが集まってきて、彼の死を悼むことになった。彼の仲間たちとも話し合って、いつもの教会の葬儀の形式はとらないことにした。座席はみんなで棺を囲むようにした。賛美をし、仲間たちがことばを語った。彼らに彼との別れを体感してほしかったのだ。彼らがこの先、生きていくために……。痛切な悲しみが、礼拝堂に満ちた。強い雨がずっと降り続いていた。
その翌週7月8日、日曜日の夜半過ぎ、市内の河川が氾濫し洪水が発生した。被害を受けたのは教会が建つ中心部ではなく、山間の地域だった。西日本豪雨災害の東端の被災地であった。
翌朝、教会員に呼びかけて急遽集めたバケツ、スコップ、雑巾などをもって、信徒とともに現地を訪ねた。道路は泥だらけ、橋も流され、車はひっくり返っていた。まぶしい夏の太陽が照りつけていた。泥の匂いと被災された人々の表情、空気感を忘れることはできない。浸水した家の中で水に濡れて汚れたピアノはものすごく重かった。何人もの人たちで、やっとのことで外に出した。ふと泥の中に落ちていた写真が目に飛び込んできた。どの家にも人々の積み重ねられた生活があり、歴史があることを思い、心が傷んだ。しばらくして人も物も何もかもが足りないことにふと気がつき、教会に急ぎ戻った。
フェイスブックで惨状を伝えるとともに、必要なものを箇条書きに記した。水、バケツ、雑巾、ほうき、消毒液、ばんそうこう、懐中電灯……。その日のうちに教会まで物資を持ってきてくださった方もあった。翌朝からは各地から荷物が届き始め、廃園になった園舎の建物に積み重ねられていった。ボランティアたちが集まって、現地に運び、必要なものを聞き、また運ぶ、運搬活動が始まった。数週間後には、床下からの泥出しの活動も始めることになった。そのほか、家の修理を含め、なんでもした。改革派教会は、ボランティアの経験のある若手の牧師たちを支援のために派遣してくれた。ボランティア活動が終結したのは、約半年後のことだった。
この間に伝道者としても市井の人々に届くことばを自分が持ちあわせていないことを痛感した。釘1本打ったことのない悩み深い牧師に、農家の老人や職人たちが心開いてくれようはずもない。留岡幸助は、1914年に北海道の遠軽に家庭学校(感化院)を開いた牧師であり、教育者である。彼のモットーに「流汗悟道」(りゅうかんごどう)ということばがある。信仰は汗を流して悟る道だと彼は説いた。このことばが繰り返し思い起こされた。
土や汗の匂い、血肉になったことばが、身体性が自分には欠けていた。これまで説教や神学、教派の仕事に集中し、他のことはしないように自分を無理に型にはめようとしてきた。しかし、もう自分を押し殺すことを止めて、解き放って自由に生きよう。伝道者として召されて、限りある命を生きているのだから、喜んでできることは人の目を気にせずやってみよう! そう願い始めた。何かが崩れて、変わり始めた。
橋谷英徳
はしたに・ひでのり 1965年岡山県生まれ。神戸学院大学、神戸改革派神学校卒業後、日本キリスト改革派太田教会、伊丹教会を経て、関キリスト教会牧師。改革派神学校講師(牧会学)。趣味は登山、薪割り。共著に説教黙想アレテイア『エレミヤ書』他(日本キリスト教団出版局)。