主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
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聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、箴言の26章です。よろしくどうぞ。
箴言 26章22節
自分を知恵ある者と思っている人を見たか。
彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
とある調査によりますと、車を運転するドライバーの7割以上の人が「自分の運転技術は平均よりも上である」と認識しているのだそうです。人間というのは自分の知識とか技術とかを過大評価してしまうものなんです。
ソクラテスの「無知の知」という言葉をご存知の方も多いかと思います。「『知らない』ということを知ることが何よりの知恵である」とか「自分が何を知らないかを知ることから知恵は始まるのだ」というような意味です。知ったかぶりをするよりも、素直に知らないことは知らないという方がよっぽど知的な態度である、ということでもあります。
箴言の著者はソロモン王とされていますが、ここにもこのように同じような意味のことが書いてあります。ソロモンが生きたのは紀元前10世紀頃、ソクラテスが生きたのは紀元前5世紀頃ですから、実にソクラテスが「無知の知」を唱えるより500年も前に、ソロモンは同じことを既に言っていたんです。
知恵に限らず、「自分はもう十分に熟達した」と思っている人は、それ以上の知識も技術も身につけることはできません。一方で「自分はまだまだ未熟である」と思っている人は、そこから知識や技術を身につけてゆきます。
大相撲のかつての名横綱、双葉山は69連勝で連勝記録が途絶えたときに、「我いまだ木鶏たりえず」と言いました。これは中国の故事に由来する言葉ですが、簡単に言えば「私はまだ最強ではない」という意味です。史上最強横綱と言われる双葉山でも「自分はまだまだである」と自覚していたんです。もし双葉山がどこかで「自分はもう十分に強い」と思ってしまったら、きっと69連勝の記録は作れなかったことですし、場合によっては横綱にもなっていなかったかもしれません。
知恵や技術というのは身につければ身につけるほど「もう自分は十分に身につけた」という気持ちが生じてしまうものです。そんな気持ちが生じてしまう己を知って、「いやいや、自分はまだまだ」と思える心構えが必要なのかと思います。「知者」よりも「愚か者」でいることが、本当の知者へと至る道なんです。反対に、「自分を知者だ」と思ってしまうことが、「愚か者」へと至る道なんです。慢心の瞬間から、人は衰え始めるんです。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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