あなたは救いのまなざしです
2015年9月13日 年間第24主日
(典礼歴B年に合わせ3年前の説教の再録)
「あなたはメシアです」人の子は必ず多くの苦しみを受ける
マルコ8:27~35
説 教
イエスさまは弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになりました。ペトロは弟子を代表して「あなたは、メシアです」「救い主です」と答えました(マルコ8:29)。
今日の出来事は、「ペトロの信仰告白」と呼ばれ、聖書全体の一つのクライマックスになっています。
この時からイエスさまの行動は大きく変化しました。これ以降、奇跡を行ったり、人々を教えたりはあまりなさいません。「救いとは何か」ということを弟子たちに教えることにエネルギーを注ぎ込まれていきます。
「救い」とは、すべての人に神さまが共にいてくださることに、今日、出会わせていただくことだと私は思います。
イエスさまは「救い」そのものでした。なぜなら、ご自分の内に神さまが共におられることを生きられたからです。そして、ご自分だけでなく、すべての人に神さまが共にいてくださることを見て、そのことを告げ、出会わせるために働きかけてくださった「救い主」です。
私たちの思いの中には、「あのことがあったらもう終わりだ」ということがあるかもしれません。そのさまざまな要因の中で、私たちにその最大の「終わり」を突きつけてくるのは「死」です。
でもイエスさまは、死によっても決して終わることのない真実があることを示してくださいました。「神さまが私たちと共にいてくださる」という真実は、死によっても決して変わることがありません。イエスさまはその真実をただ言葉で教えるだけでなく、復活をもって示してくださいました。
イエスさまは、人間の中に神さまの永遠のいのちがあることを見てくださいました。「罪人」と呼ばれる人の中にも、病気の人の中にも、そして亡くなられた人の中にも神さまが共におられる真実を見て、起き上がらせました。
イエスさまは、人間の中に神のいのちがある真実を見いだす「まなざし」そのものです。そして、そのまなざしは十字架にかけられて殺されましたが、3日後に復活しました。つまり、人間の中に神さまのいのちを見いだすまなざしは死んでも死なないということを私たちに教えてくださったのです。
今日、私たちの中にそのいのちのまなざしがあります。イエスさまが復活され、聖霊の交わりによって私たちと共にいてくださるからです。そのお方のいのちに結ばれて生きるなら、私たちは出会う人の中に神さまが共におられる真実を認めて生きるいのちになります。
私たちには、相手の中に神さまが共におられることを見いだす力がありません。しかしイエスさまは、私たちの中に神さまが共におられる真実を見るまなざしそのものです。そのまなざしで生きることを、「救いにあずかる」と言ってよいと思います。イエスさまは、今日も私たちと共にいて、私たちをご自分のまなざしの中に入れてくださるのです。
そのまなざしで私たちがお互いを見て祈り合うなら、どんな世界が訪れるでしょうか。そのことを主の祈りは、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と祈っています。
今日、お父さんとお母さんが自分の子どもに「神さまが共におられます」と祈るなら、どういう出来事が起きるでしょうか。夫が妻に、妻が夫に、「神さまが共におられます」と祈り合うなら、どういう世界が訪れるでしょう。子どもがお父さんに、お母さんに、おじいちゃんに、おばあちゃんに、「神さまが共におられます」と祈るなら、どのような世界になるでしょうか。
苦手な人や自分をいじめてくる人にも、「神さまがあなたと共におられます」と祈るならば、どんな世界が始まるでしょう。反対に、「ついあの人を見るといじめたくなってしまう」という人に「神さまがあなたと共におられます」と祈るなら、どんな世界が始まるでしょうか。
救いというのは、そのまなざしと一緒に生きることです。「たとえ人がそうしてくれなくても、私はそのまなざしで生きる」というのが、「救いにあずかる」ということではないでしょうか。
今日もイエスさまは「あなたはわたしを何者だと言うのか」と私たち一人ひとりにお尋ねになります。どうお答えになりますか。私はいま尋ねられたら、「はい、あなたは私と一緒にいて、私と一緒の向きで生きておられるお方です」と言うと思います。
今日もイエスさまは私たちを救いにあずからせるために一緒にいてくださいます。そのお方と一緒に生きる時、私たちも救いにあずかります。ただ、その方が一緒にいてくださるだけでは足りません。私たちもそのお方と一緒に生きなければならないのだと思います。
イエスさまは救いのまなざしです。そのまなざしといのちに結ばれて、恵みを一緒に生きていく者になりますように。一緒にお祈りしたいと思います。