主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、詩篇の109篇です。よろしくどうぞ。
詩篇 109篇18〜19節
衣のように 彼は呪いを身にまとい
水のように それは彼の内臓に
油のように 骨にまで染み込みました。
それが彼をおおう服となり
いつも締めている帯となりますように。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
詩篇109篇は、まさに「呪いの詩」といった趣の詩です。この詩人はまさに「末代まで呪ってやる。なんなら先祖まで遡って呪ってやる!」くらいの憎しみを敵に対してぶつけています。ちょっともう、この詩を読んでいるとその憎しみが強すぎて頭がクラクラしてくるほどです。聖書の中でも最も憎しみに満ちた箇所の一つと言っても良いかもしれません。
そしてこの詩人は「彼」つまりその敵について、「彼は呪いを身にまとい・・・」と言っているのですが、僕にはこれがいわゆる「ブーメラン」に見えて仕方ありません。敵に対して「あいつは呪いを愛する奴だ!」とか言いながら、実は誰よりも人を呪っているのはこの詩人自身なのではないかと。「彼」がその呪いのために自縄自縛に陥り、苦しむようにと詩人は願っていますが、もしかしたら誰よりも自分の呪いで自縄自縛に陥ってしまっているのはこの詩人自身なのではないかと。
なんだか、そんな読み方をすると、やるせない気持ち、切ない気持ちになってきます。「人を呪わば穴二つ」ということわざのとおり、人が人を呪う心というのは恐ろしいものです。
インターネットの世界では匿名の誹謗中傷が問題になっています。もちろん誹謗中傷は決して好ましいことではありませんが、だからといって「誹謗中傷する奴なんて人間じゃない!生きている価値がない!」なんて自分が言い出してしまったら、自分もまた「誹謗中傷する奴」の仲間入りです。
「怒りっぽい人は嫌いだ」と言っている自分が実は誰より怒りっぽかったり、
「愚痴っぽい人は嫌いだ」と言っている自分が実は誰より愚痴っぽかったり、
「おしゃべりな人は嫌いだ」と言っている自分が実は誰よりもおしゃべりだったり。
人間というのは「嫌いな人」を表明する時、自ずと自分もその「嫌いな人」のカテゴリーに組み込まれてしまっていたりします。なるほど、これが罪というものの性質なのかと思わされました。「これはあいつの罪だから僕とは関係ないし、むしろあいつが裁かれるべきだ」と思っていたら、その罪がいつの間にやら自分の罪になっている。「明日は我が身」なんてよく言われますが、「明日は我が罪」と言えるのかもしれません。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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