あなたは、冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。
ヨハネ黙示録3章15節(参照箇所同書3:14〜22)
信仰は、結局のところ信じるか、信じないかの決断を迫るのですから、万事につけなまぬるいことを許しません。決着を付けることが求められるのです。それでは、この言葉は、信仰者になるか、不信心のままで終わるか、どちらかに決めなさいというのでしょうか。キリストを信じることを求める聖書が不信仰を勧めることはないでしょう。この言葉がラオディキアの教会に宛てて言われていることを考えれば、むしろ信仰者として、あいまいさがあってはならないとする意味に受け取るのが本来の意図に添うと思われます。
信仰の世界には、あいまいさを断ち切る明快さが必要です。その意味では、ルターの言葉は、明快さに溢れています。「キリスト者は罪人であって、同時に義人である」、「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ、大胆に悔い改め、大胆に祈れ」、「わたしが罪人であるというとき、わたしの罪はわたしにはない。わたしの罪はキリストにある」、「キリストは極悪の罪人である。もしキリストが罪人でないと言うなら、キリストの十字架を否定しなければならない」。これらの言葉にはあいまいさがありません。