その十字架の血によって平和を打ち立て、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
コロサイの信徒への手紙1章20節(参照箇所同書1:9〜23)
コロサイはトルコ西部の町で、東西交通の要衝にあたり、異教的な影響の強い土地でした。とくに特殊な世界観と救済論を持つ、グノーシスと称する宗教が教会内にも入り込んできたと思われます。このコロサイの信徒への手紙は、特殊な世界観、救済論に対して福音の真理とは何かを明らかにしようとしているのです。
聖書の世界を宇宙論的なところから説き起し、なによりもキリストは見えない神の姿であり、天地の創造の前からおいでになるのであり(15節)、すべてのものの創造者、統括者であり(17節)、教会の頭である(18節)と主張します。キリストは神である、この信仰を真っ向から訴えるのです。しかしながら人間は、神に敵対する者となり、神と人間との間には越え難い罪の淵が生じた、この両者の間を和解するため十字架の出来事を起こし、それによって神との間に平和が回復された、これこそ福音であると明快に解き明かします。余計なことを言わず、しかも福音の真理は如何にスケールが大きいかを印象づけます。
このような理解は、聖書の世界の壮大さをあらためて教え、単なる宗教観や、人間の倫理道徳、個人の信仰の世界に止まっていないことに目を開かせるものです。